いよいよ5月から裁判員制度が始まる。死刑制度のある日本で、重大刑事事件のみを、しかも量刑まで判断し、しかも多数決で決定されるというのだから英米の陪審制度やヨーロッパ諸国の参審制と比較して国民にとっては随分乱暴な制度だと思うので、実行は延期して議論を重ねた方が良いと思う。苦役を禁じた日本国憲法に反するとの意見もあるくらいだが、実際には動き出したら止まらないのが日本の官僚制度なので無理矢理突き進むことになるのだろう。
以前から裁判に市民を参加させてほしいと思っていたが、念頭にあったのは公害裁判や薬害裁判に代表されるような民事裁判の方だった。しかし裁判員制度が始められるとして出されてきたのが重大刑事裁判の方だったので何故?との思いがずっと頭を離れなかった。
NHK等で推進派の人達の意見を聞いていると日弁連側は「ようやく市民参加までたどり着けた」という達成感を感じているようだが、裁判官と検察側の人は世論の批判を重視しているようで、警戒感とともに「門戸を開けてやる」との意識をにじませている。しかし私は世論の批判を取り上げた裁判官や検察の発言のなかに一種、市民に対する侮蔑というか報復というか、そうした感情を感じた。勝手なことを言っている者達に「一番嫌な苦しい仕事をさせてあげるよ!」と言ったところかな。 確かにマスコミに誘導されて勝手に噴き上がっている大衆も悪いのだけれど、それにしても「いきなりそれですか?」って感じです。
当ブログの左側「こんな本どうでしょう?」で扱いましたが、小山 勉氏の「トクヴィル」という本を読んでいて「これは!」と思わされました。200年近く前の人が既にこんな事を言っていたのか!との思いです。ちなみに福澤諭吉もトクヴィルを読んでいたのですね。(以下、カギ括弧付の引用はトクヴィルの著述から)
他方、フランスでは、陪審制は、啓蒙哲学者達によって多いに礼賛されたイギリスの制度の内の一つであったが、1791年の立法議会によって創設され、第一共和制、総裁政府、第一帝政、復古王政のもとで存続していた。陪審制は一般に重刑事犯にだけ適用されていたが、こうした限定的適用の理由は、陪審は民事事件の通常の係争点については適切な裁判は出来ないという判断にあった。
刑事裁判にも民事裁判にも陪審制が適用されていたイギリスやアメリカと違いフランスではこれからの日本と同様重大刑事裁判だけに陪審制が適用されていたのですね。民事裁判に市民を参加させないというのは市民側以上に権力側に理由があるのでしょうね。
これに対してトクヴィルは民事陪審が市民精神の形成に有効である事を強調していきます。
「陪審を司法の一制度と見なすにとどまれば、考察範囲をことさらに狭くすることになろう。たとえ陪審が訴訟の運命に重大な影響を持つとしても、それにもまして大きな影響が社会自体に及ぶからである。それ故、陪審こそすぐれて政治的な制度である。」
「陪審は人民主権原理の最も強力で直接的な適用である。陪審は人民を、自らが社会に対抗して何をすることが許され、また何が禁じられているのかについて判断を下す主体たらしめているものに他ならないからである。こうした観点から、陪審制はすぐれて共和制的な制度(陪審員が選ばれた階級によっては、民主的でもあり、貴族的でもある)である」--その意味で、陪審制は市民の司法への直接参加の一形態という、人民主権原理の実際的発展の帰結である。
「法律は習俗に支えられない限り、常に不安定である。習俗は、国民の間に唯一の強い持久力を生み出す。陪審が刑事事件に限られる場合、民衆は陪審の活動を時たまにしか、また特殊な事件についてしか見なくなる。そうなれば、民衆は日常生活では陪審なしですますことに慣れ、それは訴訟受理の一つの方法であって、唯一の方法とは見なさなくなる。逆に、陪審が民事事件にまで拡大されると、その適用は、常時人々の目を引く。それは全ての利害に触れ、各人がその活動に協力するようになる。こうして陪審は生活習慣にまで浸透するのである。」
「私は民事陪審を専制に対する最も強力な保護だと見なしている。私が民事陪審を重視するのは、特にそのためである。私の考えの結論は次の通りである。法律は習俗に支えられない限り、常に不安定である。習俗は人民にとって最も強い持久力である。陪審は民事に限定することによってはじめて、絶えず活動し、あらゆる利害に及び、全ての人々が絶えず頼りとする制度となる。陪審制は民事に限定することによってはじめて、実際に習慣の中に入り、人間精神を形式に従わせ、最後のあらゆる正義の観念と一体化させる。」
「これらの諸制度は、実に市民としての特殊な訓練を与えるものであり、自由な人民の政治教育の実際的な部分をなすものであって、彼らを個人および家族の利己心の狭い世界から抜け出させ、共同の利益を理解し、公共の事柄を処理することに慣れさせるものである。--すなわち、彼らに公共的な動機または半ば公共的な動機から行動する習慣を与え、また、彼らの一人一人を孤立させるのではなく、互いに結合させるような目的に向かって行動する習慣を与えるものである。このような習慣と能力がなければ、自由な憲法は運用されることも維持されることも出来ない。」
長々と引用してしまいましたが、特に最後のところは心にしみ入ります。モンスターペアレントのことなどが頭をよぎるのですが、個人主義が利己主義にまで行き着き共同の利益や公共の物がどうやって維持されているかに考えが及ばなくなってしまった人々を訓練し教育する場としてとりわけ民事陪審は有効だと主張している。それにしてもこうした利己心にとらわれた人間に裁判を任せられるのかという心配も他方では当然ある。ではいつまで待てばいいのか?多分いつまで待ってもそんな時は来ない。特に日本では耐震偽装の時も、食品偽装の時もそうだけど、何か問題が起こると「国は何をやってんだ!」と政府への依存を強める方向に転がり、自分たちの力を合わせてどうにかしようとは考えない人が多く、どんどん政府に任せて個人の殻に閉じこもりたがる傾向が強いので、あえて「毒を食らう覚悟」が必要なのかもしれない。
嫌なことだけど、「なっ裁判って大変でしょう」といわれて、市民参加の道を取り上げられることは多分最悪なコースだ。「毒くわば皿まで」と言うから、もっと軽い刑事裁判も、そして民事裁判も参加させろと言うまでに市民意識が向上することを願いたい。 まっそれは無理だと考えるから延期だとか廃止を唱える人が多いのは分かる。しかしまずは無理矢理やらされるのだ。避けられないならその先のことを考えるしかない。
毛沢東は「鉄砲から政権が生まれる」と言った。レーニンだかマルクスだか覚えていないけど「若者にその鉄砲の扱い方を教えてくれている」のが皇帝だかツアーリーだか(あやふやでゴメン)だと言っていたはず。その鉄砲がどちらに向けられるのかはまだ分からないのだ。
裁判はもうイヤ! ではなく「民事裁判をやらせろ」の方へ!
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