2009年10月22日 (木)

飯塚事件の再調査はどうした?

 宇都宮地裁で足利事件の再審が始まった。

 この日、じっと法廷でのやりとりに耳を傾けていた菅家さんが、突然、発言を求めたのは公判終了間際。佐藤正信裁判長が、当時の取り調べ検事の証人尋問に触れないまま閉廷を告げた時、手を挙げ、裁判長が許可する間もなく立ち上がった。「(当時の)検事を出廷させて下さい」。強く訴える菅家さんに、佐藤裁判長は少し驚いた表情を見せ、「意見として記録します」と答えて閉廷した。
(2009年10月22日01時39分 読売新聞)

 菅家さんは取り調べた警察や検察への怒りが激しい余り、裁判所への批判が二の次になりがちであるが、弁護団が睨んでいるように、より本質的には裁判所の問題の方が大きい。

 警察や検察が無実の人を罪人に仕立て上げがちなことは古今東西常識である。だから裁判所は検察が犯罪を100パーセント完璧に立証できているかどうかを検証するのが近代司法の役割であるにもかかわらず検察の提示する自白なるものを鵜呑みにして、立証の瑕疵を繕うことに汲々として今なお冤罪事件を続出し続けている。

 裁判所がまともであれば、とっくに取り調べは可視化され、代用監獄問題も改められていたはずである。捜査機関が自白を最高の証拠と考え続けてきた責任の大半は自白を鵜呑みにする裁判所があったればこそである。そうした司法の存在こそが捜査機関をして、自白しない人間を延々と拘留し続け、日夜取り調べを続け、その人権無視の非人間的な取り調べ手法を外部に漏れないように可視化を拒み続けさせた当のものである。

 菅家さんが取材に応じている姿を見る度に思うのですが、「生きていて本当に良かった!」とつくずく思うのです。「死刑囚」ではなく「無期懲役」であったから冤罪を晴らすことが出来る。飯塚事件の久間三千年死刑囚はもはや声を上げることすら出来ないのです。 何故足利事件が再審になったのに飯塚事件は死刑執行を急がれたのか? 民主党の法務委員会も昨年、弁護士から事情を聞いているはずだが、政権党になってからも何をやっているのかが見えてこない。ちゃんとやってくれているのだろうか?民主党政権には金の節約だけを期待しているわけではないのです。 このままでは本当に「死人に口なし」になってしまう。

参考
10月5日、人権の世界標準を知ろう~セミナー「拷問等禁止条約選択議定書と国内人権機関の役割」

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2009年10月 9日 (金)

まずは「死刑執行停止」と飯塚事件の死刑執行再調査を!

 実は先日、死刑制度に反対する声明に署名を致しました。その報告が届いていますので転載します。

【ご報告】

「千葉景子新法相に、死刑執行の停止を強く要求する市民の共同声明」運動の経過と結果について

       共同声明運動事務局 奥田恭子・加賀谷いそみ・井上澄夫・廣崎リュウ
   2009年10月6日
                        
「千葉景子新法相に、死刑執行の停止を強く要求する市民の共同声明」への賛同の呼びかけにご賛同下さったみなさん! そして運動の呼びかけ人になって下さったみなさん!

 日本全国と海外から寄せられたご賛同は、賛同の締め切り期限(10月4日)を1日過ぎた10月5日現在、830件に達しました。そのうち、個人賛同は786件、団体賛同は44件です。賛同の表明は文字通り、全国47都道府県から寄せられ、さらにフランス、ドイツ、イギリス、米国、タイなど海外在住の方からも届きました。賛同表明をお寄せ下さったすべてのみなさまに、深い感謝をこめて、厚く御礼申し上げます。

 「市民の共同声明」はすべてのみなさんのお名前および団体名とともに、法務省と首相官邸に送られました。その際、お一人おひとりのおおまかな住所や肩書きあるいは職業、そして団体の所在地を記しました。同省と官邸からは当事務局に受領の通知が届きました。


《運動の経過》
・この運動は8月30日衆院選の2週間前に準備が始まりました。運動の事務局を担当した「死刑廃止を求める市民の声」(略称「市民の声」)はこれまで、歴代法相による死刑執行への抗議などを続けてきましたが、8月30日衆院選が大きな政治の変化を生むと予感し、新しい法務大臣に「死刑執行の停止」を強く要求しようと考えました。

・そのために、「市民の声」単独ではなく、全国各地の多様な立場の人びとによる〈共同の呼びかけ〉によって運動を広げようと考え、アピールの冒頭に列記したように、51名の方がたによる〈共同の呼びかけ〉が実現しました。

・衆院選の結果、ご存知のように、鳩山連立政権が発足し、新法務大臣には千葉景子氏が就任しました。そこで私たちは、新政権成立の翌日、9月17日午前1時に〈共同の呼びかけ〉を全国に発信しました。

・反響は実に爆発的でした。連日、賛同表明が、次々に寄せられました。寄せられたご賛同は冒頭記したように830件です。


《爆発的な反響の意味について》
 今回の反響の大きさは、私たちがかつて経験したことのないものでした。それは何より、衆院選の結果、「政権交代」が実現したことによると思います。多くの人がこの「政権交代」によって「今こそ声をあげる好機」と感じたのではないでしょうか。

1993年の後藤田正晴法相による死刑執行再開以来、「国家による殺人」が続いてきました。長勢甚遠法相は10人の死刑を執行し、「ベルトコンベアー式」の自動執行を主張した鳩山邦夫法相は在任中、ほぼ隔月に13人の死刑を強行しました。死刑執行の停止や死刑廃止が世界の大勢になっているのに、日本では死刑執行が激増していました。

 その一方で、足利事件で無期懲役に服せられていた菅谷利和さんの無実が明らかになり、菅谷さんが釈放されて、再審が決まりました。刑事事件で冤罪(えんざい)が生まれることが改めて白日の下にさらされ、死刑執行への疑問が幅広く世論に共有されるようになってきました。また、民間から抽出される市民が場合によっては死刑判決を下す判断を迫られる「裁判員制度」が動き出し、同制度への疑問も高まっています。

 〈共同の呼びかけ〉に「爆発的な反響」が生まれた背景はおよそ以上のようなことだったと思います。賛同者で一番多かったのは、初めて死刑反対の声をあげた人たちでした。言うまでなく、これまで死刑廃止運動を支えてこられた方がたも多数賛同されました。

 今回の運動の特徴は、呼びかけが無数の自主的な協力によって広まったことです。ネットやFAXでアピールが転送・転載され、ブログやホームページでの紹介で、〈共同の呼びかけ〉が広がっていきました。ご協力下さったみなさんに厚く御礼申し上げます。


《今後の運動について》
 私たちの思いは千葉法相に届けられました。しかし千葉法相が死刑執行について「慎重に判断する」とのべていることを非難するマスメディアが執行存続を求める世論を煽っています。それを背景に法務省高官が千葉法相に対し死刑執行命令書に署名するよう圧力をかけているだろうことは想像にかたくありません。

 民主党が本年7月17日にまとめた政策集『INDEX2009』は、「『終身刑』の検討を含む刑罰の見直し」と題する項目をもうけ、「死刑存廃の国民的議論を行うとともに、終身刑を検討、仮釈放制度の客観化・透明化をはかります。(中略)国際的な動向にも注視しながら死刑の存廃問題だけでなく当面の執行停止や死刑の告知、執行方法などをも含めて国会内外で幅広く議論を継続していきます。」と記していましたが、その10日後、7月27日に公表された同党『マニフェスト』ではその部分は削除されました。

 世界人権宣言(1948年)はその第3条で「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」と規定しています。しかし1989年に国連総会で採択された国連死刑廃止条約を日本は批准していません。自由民権運動の理論家だった植木枝盛(うえき・えもり)による「東洋大日本国国憲案」はその45条で「日本の人民は何らの罪ありと雖(いえど)も生命を奪はれざるべし」と明確に規定したのですが、その先駆的な主張は今もって実現していません。

 法務省は世論の8割が支持していることを死刑制度存置の理由としていますが、EU(欧州連合)は日本政府に対し「死刑廃止の是非は、世論調査によって決めるべき問題ではありません。死刑制度の廃止は、国家としての主義の問題です。ひとつの社会を統括する政府には、この問題に関する議論の舵取りを行う責任があります。根強い偏見に賛同したり、死刑執行にまつわる秘密主義を助長したりすべきではありません。」と勧告しています。

 死刑執行をめぐる状況はまったく楽観を許すものではありません。この国では人権思想の定着になお時間を要すると思われます。しかし〈共同の呼びかけ〉への大きな反響に励まされ、私たちはみなさんとともに努力を続けようと思います。「国家による殺人」を停止させ、死刑制度を廃止するため、どうか、ともに歩んで下さい。ご賛同に重ねて深く感謝しつつ、報告を終わらせていただきます。


 千葉景子法相は元々死刑制度廃止論者で「死刑廃止を推進する議員連盟」の会員でもあります(法相就任後離脱)。ついでに言えば亀井金融相は会長であり、確か鳩山総理も会員であったりもします。法相になったとはいえ一議員の責任で執行を止め続けることはしんどいことであり制度上も好ましいことではないように思いますので、まずは「死刑執行停止法案」を成立させて欲しいところです。

 もう一つ忘れて欲しくないのは飯塚事件で犯人とされた久間三千年死刑囚の死刑執行を急いだ法務省の判断の再調査です。足利事件の菅谷さんの冤罪が話題になっていますが、同様のDNA型鑑定で真犯人とされ、もう一つの足利事件として取りざたされるようになったのですから、常識的に考えれば再審相当でしょう。それを議論がわき起こりつつある最中の昨年10月28日に突如死刑執行してしまったのですから如何にも不自然です。警察、検察、裁判所の汚点を消し去るために人一人の命を奪う事を急いだとしたら許される事ではない。

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2009年8月24日 (月)

復讐ではない方へ

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 8月は何かと戦争にまつわる話しが多いのですが、昨日の読売新聞朝刊にはソ連兵に暴行されて身ごもった女性達の中絶手術を厚生省が組織して実行した時に携わった看護婦の記事が載せられていた。 また、同じ紙面に小さくですがベトナム戦争時のソンミ村虐殺事件で唯一有罪判決を受けたカリー元中尉の記事も載っていた。

 【ニューヨーク=吉形祐司】ベトナム戦争中の1968年、米兵が南ベトナム(当時)の一般住民500人以上を殺害した「ソンミ村事件」で、ただ一人有罪となった米陸軍元中尉のウィリアム・カリー氏(66)が仮釈放後初めて、ジョージア州コロンバスの小集会で当時を語り、「41年後の謝罪」をした。

 21日、米メディアが報じた。

 カリー氏は19日、友人の招きに応じ、約50人が参加した奉仕活動団体の昼食会に出席。冒頭、「良心の呵責(かしゃく)を感じない日は一日もなかった。殺されたベトナム人とその家族、巻き込まれた米国人とその家族に対し、良心の呵責を感じている。申し訳ない」と述べた。

 米メディアが事件を暴露した後の70年、カリー氏ら14人が訴追された。同氏は軍事裁判で「上官の命令に従っただけ」と主張したが終身刑となり、上官は無罪だった。ニクソン大統領が減刑し、3年半で仮釈放されて以来、カリー氏はマスコミの取材に応じていなかった。なぜ41年後の今、重い口を開いたのかは不明だ。
(2009年8月22日21時52分 読売新聞)


 カリー元中尉が「良心の呵責を感じない日は一日もなかった」と語ったのを聞いて私はホッとしたものを感じました。そして今日の朝刊には続報が・・・。
 【バンコク=田原徳容】ベトナム戦争中の1968年に米兵が一般住民500人以上を殺害したソンミ村事件で、有罪となったウィリアム・カリー米陸軍元中尉(66)が41年ぶりに謝罪したことを受け、同村で生き残ったパン・タン・コンさん(51)が23日、本紙の電話取材に応じ、「謝罪はないと思っていた。あまりにも遅く驚いたが、犠牲者を代表して受け入れたい」と語った。

 パンさんは、10歳の時、目の前で米兵に両親と兄弟を殺害された。

 現在、同村の記念公園博物館の館長を務め、犠牲者の追悼を続ける。パンさんは「カリー氏にはベトナムに来て、当時とその後40年の思いを語ってほしい」と述べ、同氏がベトナムと米国の友好関係のシンボルとなることに期待を寄せた。
(2009年8月24日03時07分 読売新聞)


 これらの記事を読んでいて被害を被った側が癒されるというのはどういう時なのかなと考えさせられました。謝罪すると言うことは勿論なのですが、その謝罪が被害者の苦しみや悲しみにまで至った上でのものかどうかが大事なんだと思いました。加害者が被害者の感情に同化したときに出てくる謝罪が真の謝罪だと思えます。

 最初の記事の被害者達はおそらく思い出さないことによって生きていったのではと想像されるのですが、被害者の苦しみが戦争中の正気を失った兵士ではなく、正気を取り戻した平時の元兵士達に伝えられ、それこそ「良心の呵責を感じない日は一日もなかった」と言うような話しになり、それが被害者達の耳に届いたなら、随分苦痛は違ったものになったと思う。ソ連に限らず、日本にもアメリカにも戦争時の被害感情の修復を必要とされている事項がまだまだ残されているのではないかと思う。反戦平和の思想は被害者の側からだけではなく加害者側からも、そして双方から出てこなければ確固たるものにはなり得ないのではないかと思う。例えば、南京大虐殺は日本人が、広島・長崎はアメリカ人がとりわけ直視しなければならない事項だと思う。

 ちょっと話が変わりますが、裁判への被害者参加制度に関して・・・。犯罪被害者が法廷に出席する意義は加害者に自分の罪の深さを認識させ、反省と更正を促すところにあると思うのです。検察と一緒になって重罰化を叫ぶという現在の有り様は広島・長崎の思想ではなく「リメンバー・パール・ハーバー」の思想なんだろうなと思いました。

まとまりのない文章で申し訳ありません。ハイ

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2009年8月 7日 (金)

裁判員裁判で初の判決がありました。

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 裁判員制度による初めての裁判の判決が言い渡されました。懲役15年という実刑判決で、ほぼ検察側の主張が100パーセント通ったとの印象です。

 私は現行の裁判員制度には反対ですが、今日は幾つか印象に残ったことを書きます。

① 連日マスコミ報道がなされていました。司法制度の重大な変更でもあり市民の関心も高いことから報道することは理に適っていますが、二千数百人が傍聴席を求めて並んだという割に各放送局のスタッフが連日傍聴出来ているのが不思議でした。アルバイトを動員して引き当てたのだと思いますが、まさか裁判所が報道に配慮したなんてことは無いでしょうね。--報道機関の重要性は分かるのですが、裁判所が報道を優遇し、報道がそれを当然視すると言うことは馴れ合いで危険なことです。

② 被害者親族が検察側で質問したり証言したりすると言うことが、余りよいことだとは思えなかった。事実関係事態は争ってはいないのですが、殺意のあるなしや軽重を争うと被害者親族は「反省していない」と受け取り、それが裁判員にも伝染し、重罰化する傾向が認められそうだ。--検察側が被害者親族の感情を利用することによって不十分な立証でも有罪に出来る素地をつくってしまっているように感じる。被告側に不利だし冤罪を招く恐れも強い。

③ 裁判員が記者会見に応じたこと。これは意外なことでした。一つは裁判所が認めないと思っていたのに・・・、もう一つは裁判員個人が顔をさらしたがらないだろうと思っていたからですが、あっけなく実現していました。これなら個人攻撃にならない範囲でならば評議内容への言及も認めても良いのでは・・・と思いました。

④ 刑事裁判が加害者への断罪の場になってしまう事への懸念はありますが、市民は想像以上に早く裁判に馴染んでいくかもしれない。関心が民事裁判への進出へと向かう可能性に期待したい。

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2009年7月21日 (火)

上田誠吉弁護士追悼

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 上田誠吉弁護士を追悼する記事が昨日(20日)の読売新聞に載っていた。松川事件、メーデー事件、白鳥事件などに携わってきた人だという。1948年に卒業し、1950年に弁護士登録をしたと言うのだが、父親は特高警察であったというのだから、戦争に対する批判に加えて自分の出自に対する負い目がその後の弁護活動における対国家権力への不信を常人よりも強固なものにしたのではないかと私は想像するのだが、さて・・・?

 この記事を見ていると複雑な思いにとらわれるのです。どれも政治的な背景の濃い事件で、そもそも捜査が政治的に行われた疑いがきわめて強い事件ばかりですが、少なくとも白鳥事件は検察の筋書きが真実に近いと知っている。---如何にも断定的に言ってしまいましたが、信頼できる人たちから直接聞いたのだから確かなのです。(キッパリ)--- 上田誠吉弁護士は国民を戦争に動員した国家権力に対する不信が高じて、共産党の方を信頼できると信じて果敢に戦ったと思うのですが、こと白鳥事件に関しては共産党に騙され、利用されたと言える。

 裁判に関する発言を見てもらえば分かるように、私は国家権力は信じてはいけないと思っている。だからといって全部が全部嘘っぱちだと言うわけでもない。要は「信じ切って身を任せるととんでもないことになりかねない」と言うことです。身を任せていけないのは国家は勿論ですが、あらゆる組織もその傾向を持つもので、難しいことですが自分の頭で考えて判断して行動しないととんでもない役割を負わされていることがあると言うことです。--考えても間違うことは大いにあり得ますが、自分の頭で考えた結果なら仕方がない。 (^_^;)

 上田弁護士が誰かに利用されたとしても、だからといって「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則は再審裁判においても適用されるとした白鳥事件での判例を勝ち取った功績はいささかも損なわれるものではない。これからも十分に尊重されるべき「推定無罪」原則です。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

 話は少し変わりますが、いよいよ衆議院は解散しました。今日は下手な芝居を見せつけられて「自民党に任せられない」との思いを強めている人が多いと思いますが、だからといって手放しで「民主党に任せる」ではいけませんよ。どんな党であれ政権につくと「とんでもないことをやりかねない」と思った方が間違いがありません。 しっかり監督していきましょう!

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2009年6月22日 (月)

流れとともに裁判も変わる!

--足利事件、23日再審決定へ「裁判官忌避」で延期も--との記事が載っている。

 足利事件で、無期懲役が確定し、その後釈放された菅家利和さん(62)の再審請求即時抗告審で、東京高裁(矢村宏裁判長)は23日に再審開始の可否を決定する。菅家さんと女児の下着に付着した体液のDNA型が一致しなかった再鑑定結果から、再審開始を認める見通し。

 弁護側は「冤罪の真相解明が必要」として、捜査段階でDNA鑑定した警察庁科学警察研究所技官(当時)ら計11人を即時抗告審で証人尋問するよう要求。高裁が応じないため、矢村裁判長らの交代を求める忌避申し立てで対抗する構えだ。その場合、決定期日が延びる可能性もある。

北海道新聞(06/21 19:12)

 あれだけ冤罪裁判と騒がれたにもかかわらず、無罪判決は出しても冤罪にいたる捜査や裁判に対する検証作業はしないつもりらしい。テレビカメラの前でいくら芝居がかった謝罪をされるよりも、冤罪事件を二度と起こさないための具体的措置とそのための検証をこそ市民は必要としているのに・・・。

 他方、沖縄返還密約訴訟の方では画期的な訴訟指揮がなされている。

 1972年の沖縄返還をめぐる日米政府間の密約文書を、不存在を理由に公開しないのは不当だとして、元毎日新聞記者西山太吉さんらが国に不開示処分の取り消しを求めた訴訟の第1回口頭弁論が16日、東京地裁であった。杉原則彦裁判長は8月25日の次回期日までに吉野文六・元外務省アメリカ局長を証人申請するよう原告側に求めた。

 訴えているのは西山さんに加え、作家や学者ら計25人で、3月に提訴した。

 当時の返還交渉に携わった吉野元局長は2006年に、北海道新聞などの取材に対して密約の存在を認めており、杉原裁判長は「訴訟の重要な争点」とした。さらに被告の国側に「不存在ならばそれを証明する合理的な説明が必要」と求めた。
(06/17 08:19)北海道新聞

 アメリカの国立公文書館で密約を証明するアメリカ側の文書が公開されているのに、日本外務省は「不存在」だと言い張っている。「不存在」というのも不思議な言葉で、「存在したものを廃棄した」のでもなく、「アメリカの公文書は偽物だ」と言うのでもなく「不存在」だと言うのだ。日本外務省は国民から見て本当にろくでもない役所だと思わせるに十分な不誠実さなのだが、今回の裁判は別物になりそうだ。

 だからといって安心していてはいけないが。なにせ長沼ナイキ基地訴訟における平賀書簡問題のようなことが日常的に行われているのではないかと想像される日本の司法なので油断は禁物です。

 それでもなお、期待がもてると考えるのは民主党への政権交代の可能性が高まっているときだからだ。民主党の岡田幹事長は機密文書も「原則公開」にすると断言しているので公文書は確実に保管して時期が来たら公開するというように民主党政権下ではなるだろう。こうした大きな流れが裁判官を後押ししていることは間違いないところだ。

 政治上の流れが裁判に影響を与える事が素晴らしいものばかりとは限らないとしても、あまりにも長い間、自民党政権が続いたために司法も行政も自民党のご機嫌を損なわないように考え行動することが習性となって国民のことを忘れてしまっていた。そうした流れが今変わろうとしている。自民党に付いたら安心から今度は民主党に付いたら安心へと振り子は振れるが、何時までも右往左往はしていられないはず。確固とした国民益を考えるようになることを望みたい。

 私たちも民主党に期待はするが「任せる」訳ではない。期待しつつ監視することを忘れはしない。

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2009年6月17日 (水)

裁判所は勇気を持って足利事件の再検証をすべし!

 90年に栃木県足利市で当時4歳の女児が殺害された「足利事件」で無期懲役が確定し、服役中に釈放された菅家(すがや)利和さん(62)が17日、同県警本部を訪ね、石川正一郎本部長と面会した。石川本部長は「長い間つらい思いをさせたことを心からおわび申し上げます」と述べ、深々と頭を下げた。菅家さんは「ありがたい言葉、ありがとうございます」と深々と礼を返し、約30分間会談した。捜査当局が菅家さんと会って謝罪したのは初めて。 2009年6月17日11時59分 朝日新聞
 栃木県警の本部長が謝罪するのは当然ですが、本筋はむしろ関連に否定的な帝京大鑑定を不採用とし、科警研のDNA鑑定を証拠採用した裁判の方にある。同時期のDNA鑑定で死刑判決を受け、しかも昨年大急ぎで死刑執行された飯塚事件はこの裁判経過の検証と執行にいたる法務省の検証(何故こんなに早く執行されなければならなかったのか疑問がある)を抜きには何も解決されない。
 足利事件の再審請求で、十七年半ぶりに釈放された菅家利和さん(62)の弁護側と検察側の双方は十二日、東京高裁(矢村宏裁判長)に、菅家さんと女児の下着に付着した体液のDNA型が「不一致」とした再鑑定について意見書を提出した。意見書提出には菅家さんも同席、矢村裁判長と初めて面会した。

 弁護側は、鑑定が誤った真相や虚偽の自白をさせられた経緯を解明するため、鑑定をした警察庁科学警察研究所(科警研)の技官ら十一人の証人尋問を求め、「足利事件の悲劇を生んだ鑑定が、なぜ誤ったのかを検証しないで、再審請求の即時抗告審を終わらせることはできない」と訴えた。

 十一人の内訳は▽科警研の三人▽再鑑定を実施した法医学者二人▽自白を分析するための心理学などの専門家三人▽事件の目撃者二人▽法医学者で当時の科警研の鑑定に批判的な帝京大の石山〓夫(いくお)名誉教授。
2009年6月13日 東京新聞 朝刊


 裁判所としては厳しい対応を迫られていると思う。再審裁判において先輩裁判官の所行を逐一検証しなければならないのだから辛く厳しいものであることは言うまでもない。しかし、それをやらなければ冤罪をこの先防ぐことは出来ない。無実の罪で刑死していった人たちに申し訳ないし、真犯人が野放しになっていることでは被害者にも申し訳なく、社会にとっても危険この上ない。

 捜査機関は昔から無実の人間を罪に問うてきた。彼らが100パーセント明白に立証できているかどうかを検証するのが裁判所の役目だ。その役目を果たせていないから冤罪事件が後を絶たないのであり、恐ろしいことに命までも奪ってしまっているのだ。

 裁判所は勇気を持って再検証をやり遂げなければならない。これを回避するとしたら裁判員制度とは市民を冤罪判決の共犯に仕立て上げんとして始めたものと考えなければならない。これは司法の堕落以外の何物でもない。

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2009年6月 6日 (土)

日本の司法を揺さぶる「足利事件」

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 足利事件の菅家利和受刑者が昨日保釈された。1991年に逮捕され、2000年に最高裁により上告を棄却され、再審請求をするも2008年に宇都宮地裁から再審請求を棄却され、さらに東京高裁に再審を請求し、漸くDNAの再鑑定を認められ弁護側、検察側の鑑定とも別人の疑い濃厚との結果が出て、再審の決定を見る前の釈放となった。こうして時系列で眺めるだけでも気が遠くなるような努力が継続している。しかし、再鑑定できる証拠が保存されていて、しかも菅家利和氏が無期懲役であり死刑ではなかったという幸運が二つ揃っていたからこその無実の証明だったのだ。 死刑になった者のなかに無実の者が一人でもあってはならない事だ。だからこその「推定無罪」の原則なのだが、確実に見えたDNA鑑定にしてもこの有様である。

飯塚事件、再審請求へ DNA新証拠提出目指す

 福岡県飯塚市で1992年、女児2人が殺害された「飯塚事件」で死刑が確定、昨年10月に執行された久間三千年元死刑囚=当時(70)=の遺族が今秋にも再審請求(死後再審)する方針を固めたことが5日、弁護団への取材で分かった。弁護団は菅家利和さん(62)の再審無罪が確定的となった足利事件と同様、DNA型鑑定をめぐる新証拠の提出を目指す。

 弁護団によると、飯塚事件は足利事件とほぼ同時期に、同じ「MCT118」という検査法で、DNA型鑑定が実施された。被害者の遺体に付いた血液と元死刑囚のDNA型が一致したとされ、確定判決の根拠の一つとなっている。

 血液は残っておらず、足利事件のようにDNA型を再鑑定することはできない。ただ血液から抽出された犯人のものとされるDNA型はMCT118の「16-26」タイプで、元死刑囚の遺族のDNA型と比較するなどして誤りを見つける。

 「16-26」タイプは足利事件の旧鑑定で、被害者の衣服に残った体液や菅家さんのDNA型とされたが、再鑑定では異なる結果となった。

 確定判決によると、元死刑囚は92年2月、飯塚市内の路上で小学1年の女児2人を車に乗せて誘拐し、首を絞めて殺害するなどした。94年の逮捕以降、一貫して無実を訴えていた。
2009/06/05 23:00 【共同通信】

 飯塚事件では久間三千年死刑囚は昨年10月に処刑されてしまっている。上の記事にあるように再鑑定する血液は残っていないという。それでもDNA型の区分ででも無実を証明したいと考えている。 DNAをまごう事なき証拠と考えて処罰にかかわった捜査官、検事、裁判官、法務大臣達は今どんな思いを味わいつつこの事態の推移を見つめているのだろうか? 再度言うが処刑は昨年の10月ですよ。今日なら死刑執行書にサインはとうてい出来るものではない。

 「そうですねえ。あのー、今回の場合は、DNAの鑑定っていうのが大きなき、決め手になったんだと思いますけれども、昔のDNA鑑定のいわゆる科学的なレベルと今のレベルとは全然、あの倍率がまったく違うことになってるんで、そういったケースもあるんだと思いますが、これ一概に一般論としてちょっと答えるのは難しいです」

 ――総理、この件を受けて、冤罪防止のためにさらなる取り調べの可視化を求める議論が強まると思いますが、総理のお考えをお聞かせ下さい。

 「あ、可視化が、かの、必ずしも、それにつな、可視化にしたからといって途端に、あの、よ、それが良くなるという感じはありません」

 ――総理、そうは言っても、無実の人が捕まって刑に服することはあってはならないことだと思いますが…。

 「それ今答えた通りです」
 ――そういった国家のあり方を考える上で…。

 「国家のあり方ってどういう意味です?」

 ――冤罪が起きないような国にするために、総理は被疑者の言い分や自白がちゃんと録音されている可視化というのは必要だと思いませんか。

 「僕は、基本的、基本的には、一概に、可視化すれば直ちに冤罪が減るという感じがありません」(軽く頭を下げて立ち去る)(朝日新聞)

 こんな重大な事態の転換を目の当たりにしてもこんな発言の出来る人がいるのですね。DNAですらこの有様なのに、自白偏重の裁判はどうよと聞いているんだよ。こんなので裁判員制度が始められるのかとも聞いているんだよ。 人の生き死にが掛かっているのに一般論で語ろうとするんじゃない!って、全く嫌になっちゃう。 「一概に」、「一般論で」、「基本的に」、「直ちに」云々とひねた子供がつまらん言い訳の仕方を覚えてしまったようで、事実の無理解と言説の無内容は耐え難い。

誰だ、こんな馬鹿を総理大臣にしたのは!?

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2009年5月18日 (月)

判決はともかく、弁論内容に疑問。

厳罰にどよめく法廷、父母涙「司法に思い通じた」 福岡3児死亡事故

 判決の瞬間、法廷がどよめいた。「原判決を破棄し、懲役20年に処する」――。15日午前言い渡された、福岡市東区で起きた3児死亡飲酒運転追突事故の控訴審判決。福岡高裁501号法廷に陶山(すやま)博生裁判長の声が静かに響くと、大上哲央(あきお)さん(36)、妻かおりさん(32)がひざに抱えた3児の遺影が震えた。

 1審判決を大幅に上回る重い刑が下されたことに、傍聴席の多くの人が得心した様子だったが、今林大(ふとし)被告(24)の弁護人らは「到底納得いかない」と反発していた。
(2009年5月15日 読売新聞)


 危険運転致死傷罪の適用にばかり注目が集まっているが、この裁判も大きく世論の影響が感じられる裁判で、一審では被害車両側の居眠り運転が認定されていたりして、かなり泥仕合的なものを感じている。しかし、私が不思議に思うのは橋の手摺りの強度に関する議論が全然なされていないことだ。 自分が加害者であったなら、自分が悪いとしても自己弁護を試みる事の出来る理由を探すと思う。その時に、子供3人を失った被害者の落ち度を探すよりは橋の構造上の欠陥を指摘する方が心理的に相当楽ではないだろうか?橋の端まで進んだ被害車両が海に落ちないでとどまったならば事故の様相は相当違ったものとなっていたはずだ。3人の幼い命が助かっていれば、飲酒運転による事故の象徴のような事故とはなっていなかっただろう。

 もし、橋の手摺りの強度が車両を支えるほど強かったなら・・・と主張する方が、父親の居眠り運転を主張するなんて事よりも遙かに心理的負担が少ないにもかかわらず、何故そちらを主張しているのだろうか? 全く理解に苦しむ。

 わざわざ被害者と世論の処罰感情を煽っているように感じられてならない。和歌山カレー事件裁判でも感じることなのだが、被告と弁護士の間の信頼関係が結ばれないまま、もっと言うと弁護士も被告に処罰感情をたぎらせたまま弁護活動をしているのではと疑ってしまうのだが・・・。これは世論に対する迎合の故なのか、そもそも弁護士をも含む形での司法の劣化なのか?

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2009年4月29日 (水)

これからは状況証拠だけで有罪ですか?

舞鶴高1少女殺害で60歳男起訴 わいせつ目的と判断、否認のまま (04/28 18:30、04/28 19:38 更新)北海道新聞

 京都府舞鶴市の高1少女殺害事件で、京都地検は28日、殺人と強制わいせつ致死の罪で同市の無職中勝美容疑者(60)を起訴した。わいせつ目的で少女に接触して殺害に至ったと判断し、両罪を適用。死体遺棄罪については起訴を見送った。

 地検によると、防犯カメラの映像や関係者の証言などの状況証拠から、中被告が事件直前に被害者と一緒におり、殺害に関与したと判断した。「さまざまな証拠を総合的に判断した結果、中被告以外に犯行の可能性はない」としている。

 地検は認否を明らかにしなかったが、弁護人によると、一貫して否認を続けている。弁護側は徹底して証拠開示を求めていく方針で、真相解明の場は法廷に移ることになった。


 確か捜査状況としては、昨年末に窃盗容疑で逮捕し、二日ほどかけてみっちり家宅捜索をしたけれど何も出なかったと言う事件ですね。これだけ徹底して捜査しても物証が出なかった事件をよく起訴できるなーと感心する。

 容疑者否認のまま物証がなく、状況証拠だけで裁判が維持できるのか?と考えると、そんな事例がつい先日ありました。「和歌山カレー事件」の林真須美被告に最高裁が死刑を言い渡した裁判です。最高裁は状況証拠だけでも「如何にも怪しい奴」は死刑に出来るという判例を提示したことになる。この判例に勇気を得た警察と検察が起訴に踏み切ったと言うことか? カレー事件の判例がなかったら果たして京都地検は起訴に踏み切っただろうか? これからはこの手の状況証拠だけの事件も裁判員制度下で裁かれることになるのだから、最高裁は「推定無罪」原則を適用するなと言うメッセージを裁判官と国民に発したことになる。 恐ろしいことだ。

 警察や検察が暴走したときに止めるのが裁判所のはずなのに、日本では青信号を出している。裁判員に「推定無罪原則」をどうやって説明するつもりか? 裁判員制度を実行する素地は国民の方にはともかく裁判官の方にこそない。 やはり凍結すべきだ!

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2009年4月28日 (火)

裁判はもうイヤ! ではなく「民事裁判をやらせろ」の方へ!

 いよいよ5月から裁判員制度が始まる。死刑制度のある日本で、重大刑事事件のみを、しかも量刑まで判断し、しかも多数決で決定されるというのだから英米の陪審制度やヨーロッパ諸国の参審制と比較して国民にとっては随分乱暴な制度だと思うので、実行は延期して議論を重ねた方が良いと思う。苦役を禁じた日本国憲法に反するとの意見もあるくらいだが、実際には動き出したら止まらないのが日本の官僚制度なので無理矢理突き進むことになるのだろう。

 以前から裁判に市民を参加させてほしいと思っていたが、念頭にあったのは公害裁判や薬害裁判に代表されるような民事裁判の方だった。しかし裁判員制度が始められるとして出されてきたのが重大刑事裁判の方だったので何故?との思いがずっと頭を離れなかった。

 NHK等で推進派の人達の意見を聞いていると日弁連側は「ようやく市民参加までたどり着けた」という達成感を感じているようだが、裁判官と検察側の人は世論の批判を重視しているようで、警戒感とともに「門戸を開けてやる」との意識をにじませている。しかし私は世論の批判を取り上げた裁判官や検察の発言のなかに一種、市民に対する侮蔑というか報復というか、そうした感情を感じた。勝手なことを言っている者達に「一番嫌な苦しい仕事をさせてあげるよ!」と言ったところかな。 確かにマスコミに誘導されて勝手に噴き上がっている大衆も悪いのだけれど、それにしても「いきなりそれですか?」って感じです。

 当ブログの左側「こんな本どうでしょう?」で扱いましたが、小山 勉氏の「トクヴィル」という本を読んでいて「これは!」と思わされました。200年近く前の人が既にこんな事を言っていたのか!との思いです。ちなみに福澤諭吉もトクヴィルを読んでいたのですね。(以下、カギ括弧付の引用はトクヴィルの著述から)

 他方、フランスでは、陪審制は、啓蒙哲学者達によって多いに礼賛されたイギリスの制度の内の一つであったが、1791年の立法議会によって創設され、第一共和制、総裁政府、第一帝政、復古王政のもとで存続していた。陪審制は一般に重刑事犯にだけ適用されていたが、こうした限定的適用の理由は、陪審は民事事件の通常の係争点については適切な裁判は出来ないという判断にあった。
 刑事裁判にも民事裁判にも陪審制が適用されていたイギリスやアメリカと違いフランスではこれからの日本と同様重大刑事裁判だけに陪審制が適用されていたのですね。民事裁判に市民を参加させないというのは市民側以上に権力側に理由があるのでしょうね。

 これに対してトクヴィルは民事陪審が市民精神の形成に有効である事を強調していきます。

「陪審を司法の一制度と見なすにとどまれば、考察範囲をことさらに狭くすることになろう。たとえ陪審が訴訟の運命に重大な影響を持つとしても、それにもまして大きな影響が社会自体に及ぶからである。それ故、陪審こそすぐれて政治的な制度である。」

「陪審は人民主権原理の最も強力で直接的な適用である。陪審は人民を、自らが社会に対抗して何をすることが許され、また何が禁じられているのかについて判断を下す主体たらしめているものに他ならないからである。こうした観点から、陪審制はすぐれて共和制的な制度(陪審員が選ばれた階級によっては、民主的でもあり、貴族的でもある)である」--その意味で、陪審制は市民の司法への直接参加の一形態という、人民主権原理の実際的発展の帰結である。

「法律は習俗に支えられない限り、常に不安定である。習俗は、国民の間に唯一の強い持久力を生み出す。陪審が刑事事件に限られる場合、民衆は陪審の活動を時たまにしか、また特殊な事件についてしか見なくなる。そうなれば、民衆は日常生活では陪審なしですますことに慣れ、それは訴訟受理の一つの方法であって、唯一の方法とは見なさなくなる。逆に、陪審が民事事件にまで拡大されると、その適用は、常時人々の目を引く。それは全ての利害に触れ、各人がその活動に協力するようになる。こうして陪審は生活習慣にまで浸透するのである。」

「私は民事陪審を専制に対する最も強力な保護だと見なしている。私が民事陪審を重視するのは、特にそのためである。私の考えの結論は次の通りである。法律は習俗に支えられない限り、常に不安定である。習俗は人民にとって最も強い持久力である。陪審は民事に限定することによってはじめて、絶えず活動し、あらゆる利害に及び、全ての人々が絶えず頼りとする制度となる。陪審制は民事に限定することによってはじめて、実際に習慣の中に入り、人間精神を形式に従わせ、最後のあらゆる正義の観念と一体化させる。」

「これらの諸制度は、実に市民としての特殊な訓練を与えるものであり、自由な人民の政治教育の実際的な部分をなすものであって、彼らを個人および家族の利己心の狭い世界から抜け出させ、共同の利益を理解し、公共の事柄を処理することに慣れさせるものである。--すなわち、彼らに公共的な動機または半ば公共的な動機から行動する習慣を与え、また、彼らの一人一人を孤立させるのではなく、互いに結合させるような目的に向かって行動する習慣を与えるものである。このような習慣と能力がなければ、自由な憲法は運用されることも維持されることも出来ない。」


 長々と引用してしまいましたが、特に最後のところは心にしみ入ります。モンスターペアレントのことなどが頭をよぎるのですが、個人主義が利己主義にまで行き着き共同の利益や公共の物がどうやって維持されているかに考えが及ばなくなってしまった人々を訓練し教育する場としてとりわけ民事陪審は有効だと主張している。それにしてもこうした利己心にとらわれた人間に裁判を任せられるのかという心配も他方では当然ある。ではいつまで待てばいいのか?多分いつまで待ってもそんな時は来ない。特に日本では耐震偽装の時も、食品偽装の時もそうだけど、何か問題が起こると「国は何をやってんだ!」と政府への依存を強める方向に転がり、自分たちの力を合わせてどうにかしようとは考えない人が多く、どんどん政府に任せて個人の殻に閉じこもりたがる傾向が強いので、あえて「毒を食らう覚悟」が必要なのかもしれない。

 嫌なことだけど、「なっ裁判って大変でしょう」といわれて、市民参加の道を取り上げられることは多分最悪なコースだ。「毒くわば皿まで」と言うから、もっと軽い刑事裁判も、そして民事裁判も参加させろと言うまでに市民意識が向上することを願いたい。 まっそれは無理だと考えるから延期だとか廃止を唱える人が多いのは分かる。しかしまずは無理矢理やらされるのだ。避けられないならその先のことを考えるしかない。

 毛沢東は「鉄砲から政権が生まれる」と言った。レーニンだかマルクスだか覚えていないけど「若者にその鉄砲の扱い方を教えてくれている」のが皇帝だかツアーリーだか(あやふやでゴメン)だと言っていたはず。その鉄砲がどちらに向けられるのかはまだ分からないのだ。

裁判はもうイヤ! ではなく「民事裁判をやらせろ」の方へ!

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2009年4月22日 (水)

証拠があっても難しいのに……

このところ裁判関連の話題が尽きない。

足利事件、DNA型一致せず 東京高裁再鑑定、再審の公算
(04/21 00:00) 北海道新聞

 栃木県足利市で1990年、女児=当時(4)=を誘拐、殺害したとする殺人罪などで無期懲役が確定した菅家利和受刑者(62)の再審請求の即時抗告審で、東京高裁の嘱託鑑定の結果、女児の着衣に付着した体液と菅家受刑者のDNA型が一致しなかったことが20日、捜査関係者の話で分かった。

 検察、弁護側がそれぞれ推薦した鑑定医の結果が、いずれも「不一致」になったとみられる。正式な結論となれば、確定判決の有力な根拠とされた「DNA鑑定の一致」を覆す形で、再審開始の公算が高まりそうだ。

 双方の鑑定医は今月末をめどに、結果をまとめた報告書を東京高裁に提出する見通し。

 再審無罪へ向け、再鑑定を請求した主任弁護人の佐藤博史弁護士は「正式な連絡があるまで静かに見守りたい。コメントはしない」としている。

 確定判決では、菅家受刑者は90年5月、足利市内のパチンコ店から女児を近くの河川敷に誘い出し、絞殺した、とされている。

 菅家受刑者は翌年12月に逮捕され、1審公判途中から無罪を主張。捜査段階の自白やDNA鑑定の信用性を争ったが、最高裁は2000年、DNA鑑定の証拠能力を初めて認定、上告を棄却した。


 最高裁で無期懲役が確定していた事件で、証拠とされていたDNA鑑定が今度は全く逆の証明をしたと言うことになる。当然再審が始まるものと思われるが、これが死刑判決を受けた事件で、確定後9年もたっていれば刑が執行されていた可能性だってあることを想像するとやはり裁判員になることに躊躇してしまう。確実と思われる証拠がある場合でもその信頼性について十分な理解がないと誤った判断を下してしまうことになる。

 それでは確実な証拠がない場合はどうなるのかと言うと

カレー事件の林被告、死刑確定へ 最高裁、状況証拠で認定
(04/21 15:09、04/21 21:36 更新)北海道新聞

 和歌山市で1998年、4人が死亡、63人がヒ素中毒になった毒物カレー事件で、殺人罪などに問われた林真須美被告(47)の上告審判決で、最高裁第3小法廷は21日、「卑劣で残忍な無差別大量殺傷」として、1、2審の死刑判決を支持、被告の上告を棄却した。死刑が確定する。5人の裁判官全員一致の判決。

 那須弘平裁判長は、カレーに混入されたヒ素と被告宅などで発見されたヒ素を同一とした鑑定などから「被告が犯人であることは、合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明された」と指摘。1、2審が不明とした動機については「解明されていないが、認定を左右しない」と判断した。


 林真須美被告を怪しいとする報道がウンザリするほど繰り返されているので私たちも中立ではいられない。しかし有罪と認定するだけの証拠に乏しく状況証拠を積み上げて死刑というのは如何にも危うい。カレー鍋のそばに被告が一人でいたとした証人も死刑と聞いてそこまでの確信を持ち得ているものなのだろうか?

 私が裁判員だとしても有罪の確信が持てず、証人だったとしても死刑までの責任は負いきれないと想像する。判決では証言には直接言及しなかったそうですが、状況証拠と言うことになると決定的なのはこの目撃証言の方ではないのか? だとしたら、この証言をした人の精神的な負担の方が心配になってしまうのですが…。

 こんな風に考える奴はいないのか?

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2009年4月15日 (水)

最高裁が痴漢事件で逆転無罪判決を出した。

 夕刊を見ながら家内から「あなたなら最後まで戦う?」と質問された。

痴漢で逆転無罪判決 最高裁「女子高生の供述に疑い」
(04/14 16:01、04/14 22:27更新)北海道新聞

 2006年に小田急線の車内で女子高生に痴漢をしたとして、強制わいせつの罪に問われた防衛医大教授名倉正博被告(63)=起訴休職中=の上告審判決で、最高裁第3小法廷は14日、「被害に関する供述には疑いの余地がある」と判断し懲役1年10月とした1、2審判決を破棄、逆転無罪を言い渡した。無罪が確定する。

 判決は、満員電車での痴漢事件について「客観的証拠が得られにくく、被害者供述が唯一の証拠となることが多い上、被害者の思い込みで犯人とされた場合は防御の手だてが容易ではないとの特質から、特に慎重な判断が求められる」と指摘した。


 40代くらいまででないのと思っていたのですが、この人も60代。私も今年で還暦なのですが決して他人事でないということに少々ショックを受けました。 こんな疑いをかけられたら無罪を勝ち取れても、冤罪のままでも「死んでも死にきれない!」と私は答えました。それにしてもシンドイことで、耐えきれるかどうか自信はない。

 多くの痴漢とされる事件では物証を確保する事なく、被害者(とされる人)の証言だけを頼りに訴訟が行われているようです。映画「それでも私はやっていない」を見るまでもなく、無罪の立証を弁護側が理不尽にも負わなければならないというのが日本の裁判の実情だ。 確かに痴漢行為を受けた被害者はかわいそうで、警察や検察が如何に正義感にあふれ、処罰感情に突き動かされるとしても「無実の人間を罪に陥れる」事があってはならない。 推定無罪の原則を心にとどめてほしい。

 最後にマスコミの取り上げ方に疑問を感じる。 見出しに『最高裁「女子高生の供述に疑い」』とあるのですが、これでは女子高生の訴え自体を否定したようにとれる表現だが、そう言っているのだろうか? 問題は被害者の証言だけで訴訟に持ち込んだ検察と、証言だけで有罪を言い渡した裁判官の判断とを問うているものだと思う。 最高裁は刑事裁判における「推定無罪」原則の徹底を求めたと見るべきではないのか?

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2009年2月20日 (金)

死刑回避は簡単か?

 昨年四月の東京都江東区の女性会社員殺害事件に対する東京地裁判決が昨日行われ、星島貴徳被告に無期懲役が言い渡された。テレビは勿論なのですが新聞も無期懲役の判決に「被害者家族が納得しているかどうか?」に関心を集中させているのですが、そんなことで良いのだろうか? 被害者親族にしたら加害者が死刑になろうとなるまいとおさまりがつくような話ではない。「被害者を元に戻して!」、それ以外の望みはないものと思う。 メディア側が行っていることは「被害者感情に寄り添う」と言うよりは興味本位に近いもののように感じられるのだが…。 被害者親族が死刑を望んでいないと言ったらメディアは「死刑反対」を主張するのだろうか? 被害者側が死刑を望み、死刑判決が下されたとして、「良かったですね」といわれて喜ぶ遺族がいるだろうか?断言は出来ないけれど、遺族としてはそうした気分にもなれないのではないかと思う。

 判決の言い渡しを一ヶ月延期したときに、この裁判官は多分「死刑判決を回避するのではないか」と思った。現在の日本の世論は厳罰化の趨勢が強く「死刑判断」をするよりも「死刑回避判断」をするほうがためらわれると想像しているからである。プロの裁判官もそうした圧力を強く感じていると言うことだろう。

 判決文を読んで、随分「丁寧に且つ回りくどく」言わなければ死刑回避できないものなのだなーとまず感じた。生育環境であるとか、前科前歴とかの評価も、被害者の存在の前ではかすんでしまうものだし、贖罪だって果たして当てになるものかどうかわかったものではない。表現は違うけれど「一人しか殺していない」との論拠は「殺され損」の感を強くするものだ。しかし、こうした簡単に論破されそうな頼りない論拠でしか死刑回避の判断が出来ないと言うことにはもっと注目して良いのではないだろうか。死刑判決を出す方がよほど楽な作業に思えるくらいだ。

 「人を殺したのだから死刑」と言うのは素朴な感情に適うけれど、「殺されて当然」な殺人事件だってあり得る。だからといって人を殺してお咎めなしには出来ないし、遺族が「死刑を望む」と言えばどんなに理不尽でも…さて、どうする? 放っておけば報復合戦だ。 そう考えると裁判は報復の連鎖を止めるように判例を積み重ねてきたと見ることも出来るし、たとえ加害者であっても人の命は尊いと言うことを現していると見ることも出来る。

 今年は裁判員制度が始まる。どんな論理で裁こうとするのだろうか? この裁判の判決要旨を毎日新聞より転載させていただきますが、死刑回避の論理を簡単に論破してしまわないでほしいと切に望むところです。

 1 死刑は人間存在の根源である生命そのものを永遠に奪い去る冷厳な極刑であり、誠にやむを得ない場合における究極の刑罰であることにかんがみると、適用は慎重に行われなければならない。死刑制度を存置する現行法制では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗(しつよう)性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合には死刑の選択が許される(最高裁83年7月8日判決参照)。

 殺害された被害者が1人の事案においても、前記のような諸般の情状を考慮して、極刑がやむを得ないと認められる場合があることはいうまでもない。だが83年最高裁判例も死刑を選択する基準の一つである結果の重大性を考える際には殺害された被害者の数が重要である旨判示しており、罪刑均衡の観点からは殺害された被害者が多数に上る事案とは状況を異にするというべきであるから殺害された被害者が1人の事案において死刑を選択するためには他の量刑要素において相当強度の悪質性が認められることが必要となる。

 2 本件についてみると第一に強姦(ごうかん)目的で被害者宅に押し入って拉致した上、犯行の発覚を恐れて被害者を殺害し、その死体を細かく切断して投棄したというもので、各犯行の罪質は甚だ悪質である。

 第二に、犯行の動機は、住居侵入、わいせつ略取については女性を「性奴隷」にしようというゆがんだ性的欲望のため、殺人、死体損壊、死体遺棄についてはわいせつ略取等の発覚を恐れたためであって、いずれも極めて身勝手で自己中心的である上、住居侵入、わいせつ略取については計画性が認められる。

 第三に、犯行態様は、住居侵入、わいせつ略取については、被害者宅に押し入って無理やり被害者を拉致して自室に連れ込むという凶悪なもので、非常に悪質であり、殺人については、包丁で被害者の頸部(けいぶ)を突き刺すなどしており、残虐かつ冷酷である上、死体損壊、死体遺棄については、死体を細かく切断して投棄したという戦りつすら覚えるものであって、死者の名誉や人格、遺族の心情を踏みにじる極めて卑劣なものである。

 第四に、被害者は、何らの落ち度がないにもかかわらず拉致された上で尊い命を奪われており、結果が誠に重大であり、遺族らの処罰感情がしゅん烈を極め、社会に与えた衝撃も大きい。

 第五に、被告は徹底した罪証隠滅行為を行い、事件と無関係を装っていた。これらの事情に照らすと一般予防の観点も踏まえて、検察官が被告に対して死刑を求めるのも理解できないことではない。

 3 他方で、被告の刑事責任を検討するにあたっては、以下の事情も指摘されなければならない。第一に、本件殺人の態様は、執拗なものではなく、冷酷ではあるが残虐極まりないとまではいえない上、死刑選択の当否という場面においては、死体損壊、死体遺棄の態様の悪質性を殺害態様の悪質性に比べて過大に評価することはできないと考えるべきである。

 第二に、被告は、拉致した後も2時間以上にわたり、当初意図していた強姦はもとより、わいせつ行為にすら至らなかった。

 第三に、殺人、死体損壊、死体遺棄には計画性は認められず、殺害行為が偶発的であったとは言い難いとしても、計画性の有無により非難の程度に差異があるのは当然である。

 これらの事情に照らすと罪刑均衡の観点から量刑の傾向をも踏まえて検討した場合、本件は死刑の選択も考慮すべき事案ではあるものの、特に酌量すべき事情がない限り死刑を選択すべき事案とまではいえないと考える。

 4 そこで更に、被告の生活歴、逮捕後の態度等の主観的事情についても検討を加えると、被告は、逮捕された後は、警察官の言葉に心を動かされ、罪悪感を募らせて、各犯行の詳細を自供し、その後も一貫して事実を認め、公判廷でも自己の行った犯罪に向き合い、各犯行の詳細を述べるほか、被害者に対して冥福を祈るなど自らの罪を悔い、謝罪の態度を示している。

 被告は、前科前歴がなく、職に就いて一定の収入を得るなど、犯罪とは無縁の生活を送ってきている。幼少時に負った大きなやけどのあとにコンプレックスを感じて生きてきたことには同情すべき点もみられ、家族との間の関係には変化の兆しもみられる。

 これらの点は、本件のように罪責が重大な事案の場合、過大に強調することは適当ではないものの、前記のとおり、本件は特に酌量すべき事情がない限りは死刑を選択すべきだとまではいえない以上、相応の意味を持つというべきである。

 5 そうすると、本件は死刑の選択も考慮すべき事案ではあるものの、特に酌量すべき事情がない限り死刑を選択すべき事案とまではいうことはできない。これに、被告にとって有利にしん酌すべき主観的な事情をも併せ考慮すれば、被告に対し、死刑をもって臨むのは、重きに過ぎるというべきである。

 したがって、被告に対しては無期懲役刑に処することとして、その終生の間、生命の尊さと自己の罪責の重さを真摯(しんし)に考えさせるとともに被害者の冥福を祈らせ、しょく罪にあたらせることが相当と判断した。

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2009年1月27日 (火)

裁判がおかしくなっていく!

 まだ、記憶に新しいので昨年の4月だったと言われても信じられないくらいなのですが、江東区の女性殺害事件の星島被告の裁判が「矯正の余地ない」として死刑求刑されて結審した。

 東京都江東区のマンション自室で昨年4月、2部屋隣に住んでいた会社員東城瑠理香さん(当時23歳)を殺害し、遺体を切断して捨てたとして、殺人や死体損壊などの罪に問われた元派遣社員・星島貴徳被告(34)の公判が26日、東京地裁であった。

 検察側は論告で、「被害者の人格、尊厳、生命を一顧だにしない犯行で、矯正の余地はない」と述べ、死刑を求刑した。弁護側は最終弁論で、「事件に計画性はなく、被告の反省も顕著。無期懲役が相当だ」と反論した。

 星島被告は、「一日も早く死刑にして下さい」と述べ、結審した。(1月26日読売新聞)


 事件も異常なんですが裁判も異常に思えてならない。裁判員制度をにらんで公判が組み立てられていたので遺族の方には見るに堪えられず、途中退廷したことが大きく取り上げられもした。 そもそも否認していないので遺体を切り刻んだことをそんなに生々しく審理(見せる)する必要があったのかが疑問だ。冷静に考えると、生きている人間を殺すことこそが残虐であり得て、遺体の損傷は異常さの裏付けにしかならないのではないか?今までだと、加害者の異常な行動は、むしろ責任能力が疑われることになって検察としては余り好ましくない事柄だったのではないだろうか? それが、今では遺体を切り刻んだことの方を丁寧に実証して見せている。 私は自分の欲望のために隣人を拉致して殺したことだけで十分に残虐だと思うが、遺体を切り刻んだことについては理解しがたい異常な行動としか思えないのだ。確かに遺族にとっては憎んでも憎み足りないとは思うが、裁判が遺体損傷の行為を持って死刑適用へ流れるというのは弁護士でなくともおかしいと思う人が多いのではないだろうか?これでは裁判長も困るはずで、平出喜一裁判長が「判断に慎重を期したい」として、当初、2月10日に予定されていた判決を2月18日に延期したのも宜なるかなである。

 裁判長は死刑要求の世論を十分すぎるほど感じているが、今までの法理では死刑適用が難しい事例だと分かっていて悩んでいるのだと想像される。これを今後は素人の裁判員が判断しなければならないのだ。大変に難しい問題だが、裁判員がこの一線を易々と越えていくとしたらそれはまたそれで恐ろしいことだ。 本当に日本の裁判はどういう事になっていくのだろう?

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2008年12月21日 (日)

「正義が実現したと言うことだ」の衝撃

20081218yomiuri
 読売新聞社会面ではこのところ死刑制度を取り上げている。左の記事では弟の命を奪われた原田正治氏と松本サリン事件で被害者でありながら容疑者扱いをされた河野義行氏が取り上げられていた。私はこの人達の考え方に強く共感するところがあるのですが、これだけでは死刑制度反対に傾いている私としては「手前味噌」の誹りを免れないでしょう。被害者感情という面では、色々悩んだ末に「やっぱり犯人の命をください…」と思う被害者遺族の感情も胸に突き刺さるものがあります。 少し長いのですが紙面が手元に残っていないのでネットでとったものを引用させてもらいます。

最初は終身刑望んだ母「やっぱり犯人の命をください」

実家にある久保田奈々さんの写真は、病を克服して食べられるはずだったチョコレートや、庭木の果物に囲まれている(長崎県平戸市)

 「終身刑を望みます」

 娘を殺害した犯人が逮捕された直後、どんな刑を科してほしいかと捜査官から尋ねられ、久保田博子さん(51)はそう答えた。

 2004年12月12日夜、福岡県飯塚市で一人暮らしをしていた三女の奈々さん(当時18歳)が、アパートへ帰る途中、近くの公園に引きずり込まれ、絞殺された。翌日、離島の的山(あづち)大島(長崎県平戸市)から駆けつけた博子さんと夫の寿(ひさし)さん(52)が対面したのは、今まで見たこともない、苦しげな顔をした奈々さんだった。

 3か月後、土木作業員の鈴木泰徳被告(39)が強盗殺人容疑などで逮捕され、わずか1か月余りの間に福岡県内で奈々さんら3人の女性を殺害したと自供した。

 「死刑は当然」と寿さんは考えていた。しかし、博子さんはそう思えなかった。

          ◆

 奈々さんが難病の膠原(こうげん)病にかかっているとわかったのは、声優になる夢を抱いて島外の高校に進学して間もなくのことだ。入院施設のある養護学校に入り直した。一日80錠の薬の影響で顔は腫れ、大好きだった甘い物も食べられなくなった。

 娘を見舞うため、養護学校を訪ねた博子さんは、車いすで懸命に教室に通ってくる筋ジストロフィーや心臓病などの子供に出会う。いつも自分の死を見つめているように感じられた。

 「私は絶対に膠原病を治して、声優になって、重い病気の人を励ましたい」。ある時、そんな決意を明かした奈々さんは04年春、病が癒え、卒業する。だが、仲が良かった難病の男子生徒はその後、亡くなった。

 「長くは生きられないことがわかっていても、悲観することなく懸命に生きていた。そんな子供たちを見て、生きていける命をほかからの力で奪うことに抵抗を感じていました」と、博子さんは言う。

          ◆

 鈴木被告は幼い2人の子供がいながら、パチンコや酒で借金を重ね、ストレスをためた末、乱暴目的で一人歩きの女性を探し、偶然見かけた奈々さんを襲った。しかし、福岡地裁の法廷では捜査段階で認めた殺意を否認し、「生き続けて、若い人たちに犯罪に走るなと伝えたい」などと訴えた。

 「何でうちの娘を」。傍聴席で、博子さんは叫びたい衝動を何度もこらえた。養護学校を卒業後、手に職をつけるため、飯塚市内の歯科技工士の専門学校に入学した娘は、事件の3週間前に会った時、「今の学校は楽しいけん。ここに来て本当によかった」と笑顔で話していた。クリスマスには思い切りケーキを食べさせてあげたかったのに。

 06年3月9日の第8回公判。博子さんは意見陳述に立った。当初は死刑でなく終身刑を求めた気持ちから話し始めたが、途中から抑えていた感情があふれ出た。

 「私たちは成長した奈々に会えないのに、犯人はさも罪を償っていましたと言わんばかりに、大きくなった我が子に会える。嫌だ、それだけは許さない……。私の心はどこまで醜くなるのでしょう。やっぱり犯人の命をください……」

          ◆

 12日、今年の命日の夜を、両親は島の自宅で迎えた。地裁、高裁でともに死刑判決が出た鈴木被告は今年2月、最高裁に上告した。

 「罪のない子供が親に会えないことを願うなんて、おかしいと自分でも思う。でも、もし被告が無期懲役になることを考えると……」。博子さんは声を震わせた。

 「命の大切さを分かっている妻は、犯人の死を望む自分を責めてきました。こんな思いをする家族をもう出さないためにも、落ち度のない人を殺せば死刑だということを示すしかないと思います」。寿さんは語った。

 (連載「死刑」第2部「かえらぬ命」第3回)
(2008年12月13日07時32分 読売新聞)


 死刑制度を考えるときに遺族感情を中心にしてしまうと思考は千々に乱れまとまることはない。加害者も被害者も動機も百人百様で、例え死刑を執行しようとも感情の修復が済むというものでもないことを目にする。直接の被害者でない自分たちは死刑執行で気が済んだのでしょうと思いがちだが、実際のところはそうでもないようだ。完全に癒されるなどと言うことはあり得ないことと考えた方が良いように思う。 どうも、死刑制度を考えるときには遺族感情と言うよりも国家が人を殺すと言うことを中心にして考えるべきなのではないだろうかと思うようになった。

 「国家が裁く、国家が殺す」と言うことに思い至るようになったのは例の「ルーシーさん事件」裁判に対する母親のコメントに若干の衝撃を受けたことに拠るのです。

 判決を傍聴したルーシーさんの母、ジェーン・スティアさん(55)は、隣に座った通訳がノートに筆記する文面から判決を読み取った。判決後、英国大使館で記者会見し、「ルーシーに起きたことを聞くのはつらかったが、判決には満足している。ルーシーの件で有罪になり、無期懲役が言い渡されたのだから、正義が実現したということだ」と語った。
(2008年12月16日22時54分 読売新聞)

 「正義の実現」と言うことが国家が裁くと言うことの意味なのか?!との驚き。法学部なんかではこう教えられているのかもしれませんが素人の私には新しい発見でした。人権というと「加害者の人権ばかりを守る、被害者の人権はどうなるのか」と反論されることを近年ずっと目にし続けてきたのですが「国家に人権を守るよう」命じたのも他ならぬ我々国民だと言うことも考えなければなりません。「被害者に代わって国家が仇を討つ」というのが国家の役割だというような現在の風潮は違っているような気がしています。

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2008年12月 6日 (土)

冤罪は只の一件もあってはならない!

 昨日の夕刊の片隅に弘前大教授夫人殺人事件の犯人とされ服役後に冤罪であったことが分かった那須隆さんが今年の1月に死去していたことが分かったとの記事が載せられていた。

 青森県弘前市で1949年に起きた弘前大教授夫人殺害事件の犯人とされ、真犯人が現れて再審無罪となるまで冤罪(えんざい)に苦しんだ那須隆さんが今年1月24日、青森県内の病院で死亡していたことが分かった。84歳だった。

 那須さんは49年8月、弘前大医学部教授の妻が自宅で殺害された事件で、約2週間後に警察に逮捕された。一貫して犯行を否認したが、53年に最高裁で懲役15年の刑が確定し、服役した。事件から20年以上たった71年、知人が真犯人として名乗り出たことから再審を請求。いったんは棄却されたが、異議申し立てが認められ、77年に仙台高裁で無罪が確定した。
(2008年12月5日14時48分 読売新聞)


 私が生まれたばかりの頃の事件なので記憶されることはないはずなのですが、真犯人が名乗り出て70年代に報道されたことで私の記憶にも残っている。裁判員制度が半年後に始まることや、犯罪被害者参加制度が始まると言った日本の司法制度の大きな転換期のこの時期に明らかになったことは、単なる偶然とは片付けられないものを感じました。

 那須さん、当時25歳は事件2週間後逮捕されるのですが、一貫して否認しアリバイを主張したが、両親の証言は肉親と言うことで採用されなかった。--肉親は確かに身内をかばう傾向があるとは言え、通常夜中に存在証明できるのは肉親に限られる。私達も九分九厘肉親にしか証明してもらえないだろう。決定的とは言えないまでも一顧だにされないというのは常人の感覚では理解しがたいのだが、時に捜査当局は筋書きに反するものは排除していく傾向がある。

 検察は白の開襟シャツに被害者の血痕がついていたことを証拠として殺人罪で起訴するのですが、一審では無罪となってしまった。そこで控訴審では法医学鑑定の権威である古畑鑑定(那須の白開襟シャツに付着していた血痕は98.5%被害者の血痕である)を持ち出し、懲役15年の実刑判決を得る。その後最高裁で確定。-- 一審では血痕とされるものがそもそも血なのかが争点となったほどの微かなものだったらしいのですが、二審では古畑鑑定ではほぼまちがいなく被害者の血痕だとされている。後日、無罪が証明されるものの服に何故、被害者の血痕がついていたかの方が大問題で、強く警察側の証拠捏造が疑われるところだ。

 この事件では指紋採取にも成功しているらしいのだが、その事実が伏せられていたという。誰の指紋かは分からないが、那須さんの指紋とは一致しないと言うことだから、別な真犯人の存在を暗示するものなので隠されたと見て間違いがない。容疑者が犯人でない可能性を示す証拠は排除されて裁判にも出てこないと言うことです。日本の裁判では警察・検察にとって都合の悪い証拠は隠すことが当然のように行われていて、冤罪を作り出す元になっている。アメリカなどでは証拠は全て提出することが原則で、証拠を隠していたと言うことが明らかになったらその場で無罪判決が出るほどなのに、全証拠の提出が義務づけられていないというのは日本の司法制度の明らかな欠陥だ。

 1970年11月の三島由紀夫事件に影響を受けた真犯人の告白で再審請求がなされ、1976年に再審が決定し、翌年無罪判決が出されるのですが、身の潔白が証明されるまで28年を要した。真犯人は三島に影響を受けたとはいえ時効を計算したことも多分明らかでしょう。殺人事件の時効制度は廃止すべきだとの意見が大きいですが、時効があるために真犯人が名乗り出るハードルが下がるという意義はあるかもしれない。時効制度廃止の前に日本の司法制度をより冤罪を生み出さないものに変える必要があると思う。

 さて、裁判員制度は日本の司法制度を大きく変えるものでありますが、変える方向が冤罪を防ぐものになるかと考えるとどうにもそちらの方向には動かないように感じる。被害者も裁判員も検察と一体となって容疑者を断罪する方向へ向かう可能性が圧倒的に大きいと思う。多くの人達は裁判員になることを心配しているのですが、冤罪事件を調べてみると自分たちが容疑者として裁かれる立場に立つ可能性の方により大きな恐ろしさを感じる。今夜のNHKでは裁判員制度を取り上げて特集をやるようですが、多分裁く方の立場で色々考えるのでしょうね。裁かれる方の立場(必ずしも真犯人ではない)を考えることにどのくらいの比重をかけられるものか注目したい。

 「冤罪は只の一件すらあってはならない」との立場に国民は何時か立つことができるだろうか?

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2008年12月 1日 (月)

日本の司法は「推定無罪の原則」を投げ捨てるのか?

 日本の裁判制度はどうなってしまうのだろう?との疑問が沸々と湧いてきます。昨日もこんな報せがありました。

被害者参加、1日スタート=刑事法廷に遺族ら出席-尋問や独自求刑も
2008年11月30日(日)14時46分配信 時事通信

 刑事事件の被害者や遺族が公判に参加する犯罪被害者参加制度が、1日から始まる。被害者が法廷内で検察官の隣などに座り、被告人質問や証人尋問、独自の論告求刑などを行えるようになる。同日以降に起訴された事件が対象で、早ければ年内にも最初の被害者参加が実現することになる。
 同制度の対象となるのは、故意に人を死傷させた事件や、強姦(ごうかん)、業務上過失致死傷、監禁などの事件。
 参加を望む被害者は、事件を担当する検察官へ申し出る。検察官は参加を許可すべきかどうかの意見を付けて裁判所に通知。裁判所が被告側の意見も聞いて、犯罪の性質などを考慮し、参加の可否を決定する。
 出廷した被害者は、裁判官の許可を得た上で、被告人質問や情状に関する証人尋問ができる。意見陳述として検察官と異なる論告求刑も行える。
 犯罪被害者はこれまでも心情についての意見陳述が認められていたが、論告求刑では事実認定や法律の適用など広範囲に意見を述べることが許され、検察官を上回る求刑もできる。 


 確かに裁判において被害者の感情をことさら無視するようなことには批判も覚えたけれど、裁判員制度も含めてここまでの事を被害者に許す(させる)のは狂っているのではないか?

 被害者は検察と異なる論告と求刑を行うことができるという。強制力を伴った捜査権を使って調べ上げた検察の論告と異なる論告求刑を何故一介の民間人がなし得るのか?そこで行われる論告とはどのようなものになるのか?論告と言うよりは感情のほとばしりとなることは目に見えているのではないか?

 法律の専門家ではない民間人の裁判員が並ぶ前で被害者が感情を爆発させるとしたらどんな裁判になるのか?想像するだに恐ろしい状況が目に浮かぶ。 加害者が罪を認めている場合でも目一杯重罰方向に向かうであろうし、否認している場合は「改悛の情」が見られない証拠としてさらなる厳罰を求めることになりかねない。検察の起訴状にある犯罪の証明をなされたと認めるか不十分と認めるかという近代刑法の精神を踏みにじることになる。つまり日本の刑事裁判から「推定無罪」の原則は投げ捨てられてしまうことになると思うのだが、これで本当に良いのか?

 裁判が真理究明の場ではなく断罪の場と化してしまうが、冤罪は根絶されているのか?警察や検察の立場では冤罪はあり得ない事なのかもしれないが、司法の場も冤罪の可能性を認めないと言うことになるのでは?

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2008年11月29日 (土)

裁判員制度を実行するなら…せめて

 昨日から裁判員候補者への通知が始まった。否応なく市民の一部が死刑制度に直面していくことになるが、大丈夫なんだろうか?ダムや道路と同じで、法務省は転がりだしたらもう止まらないようですが肝心の市民の側に準備はできているのでしょうか?…とても不安です。

 刑事裁判は検察側の起訴状が被告の有罪を十分証明しているかどうかを判断するもので、そうでなければ「推定無罪」の原則に則って無罪判決となるという近代法の原則を裁判官ですら疑わしい日本で一般市民が担うことができるのかという疑問はぬぐえない。厚労省元事務次官夫妻殺人事件なんか早くもネットでは「キチガイは吊せ」しきの言説も目につきます。裁判員になった市民が果たして生身の被告をみて同じ感情を持ち得るのかどうかは疑問ですが、持続できるとしたら同情意見を押しつぶして死刑連発なんて事になりかねない。どんな空気が裁判員達を覆うものか予想がつかないが、加害者の境遇などに同情を覚えたとして果たしてそれを主張する勇気を私は持ち得るのだろうかと考えるとそれだけで手に汗がにじんでくる思いだ。空気に逆らって意見を言うことはそれだけでも日本人には辛いが、例え加害者であっても人の命が掛かっている。

 裁判員制度については色々と危惧する意見もあるのですが、国会も法務省も「やってみて不都合なところは直せばいい」みたいな考え方ですが、自分が裁判員になったことすら限られた人にしか言うことを許されず、裁判の内容を他に漏らしてはいけないという中でどうやって改善点を議論することができるのだろう?その道筋を事前に作っておく必要があるのではないだろうか?そうでなければ、自分では戦争も止められない国民性を考えると危なっかしくて仕方がない。せめて裁判員経験者の感想や反省を集めるサイトくらいは必要ではないか?それもイヤというなら、いっそのこと評議を全て録画しておくか?他者の目を意識しない密室での作業は不健全なものになりかねない。公開というのは難しいと思うが、限られた検討委員会の中で参照することぐらいは可能であり必要ではないか?

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2008年11月27日 (木)

被害者の意見を尊重すると言われても…?

 最近は飲酒運転者の「ひき逃げ」ならぬ「引きずり事故」が続いたり、警官が飲酒運転の上「当て逃げ」をしたりと飲酒運転の重罰化が思わぬ(実は予想されていた)重大事故(犯罪)を引き起こしている例に見られるように、法改正が麻生総理並みの思いつきでなされるようになったと感じられてならない。

 今日の新聞に「無期囚の仮釈放、遺族らが意見…法務省が聴取を義務付けへ」という記事が載っていた。

 法務省は25日、無期懲役の判決を受けて刑務所に服役している受刑者(無期懲役囚)を仮釈放する際は、被害者や遺族の意見を聴くことを義務づける方針を固めた。

 刑事裁判に被害者らが参加し、被告人質問などを行える「被害者参加制度」が12月から始まることにあわせ、仮釈放でも被害者重視の姿勢を示すことが狙いだ。年度内にも関係省令を改正する。

 無期懲役は10年以上の服役で仮釈放が可能となる。仮釈放は刑事施設長が申請し、地方更生保護委員会が法務省令に従って〈1〉更生の意欲がある〈2〉再犯の恐れがない――などの観点から許可・不許可を決める。現在でも被害者らから意見を聴取できるが、今後は意見聴取を義務づける。同委員会は、被害者らの意見を、仮釈放の許可・不許可決定の参考にする。

 また、法務省は無期懲役囚の仮釈放申請について、許可・不許可すべてのケースについて入所期間などを公表する方針だ。これまでは許可された場合のみ件数などを年間統計で公表してきたが、今後は、不許可の場合も公表することで、運用の透明化を図る。
(2008年11月26日 読売新聞)


 被害者感情に配慮した省令改正と言うことなのだろうけれど、どんな結果を引き起こすかを検討した上で実施を決めたのだろうか?仮釈放の判断に被害者の意見聴取を義務づけると言うことで何がどう変わると予想されるだろうか?

 まず無期懲役囚の服役期間が今以上に長期化するだろうことは容易に予想がつく。長期化することが良いことなのか悪いことなのかは一概には言えないが、事実上終身刑化する可能性がある。加害者の人権について言うと批判されるかもしれないが、更正という観点からするとモチベーションが下がることも問題になりそうだ。

 それにも増して、地方更正保護委員会が最終決定するとしても被害関係者の意見聴取が義務化されていることによって仮釈放却下の判断はひとえに「被害者の反対による」ものとの思いこみを服役囚やその関係者などに与えてしまうかもしれない。逆恨みによる報復を招くおそれがないだろうか?その畏れがまた仮釈放を難しくし、刑期の長期化を招き、社会復帰をますます困難にもするのではなかろうか?

 飲酒運転の重罰化がひき逃げ事件を増大させるとの予想よりは結果の予想が難しい法務省令の改正ではあるが、敢えて世論に逆らってでも地方更正保護委員会が責任を持って判断するという方が良いのではないだろうか? 被害者の意見を入れると言うことが必ずしも良い結果をもたらさないと言うこともあり得る。 被害者感情への配慮と言うよりも、大衆迎合というか責任放棄のニオイが強く感じられて仕方がない。

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2008年10月14日 (火)

三浦和義氏を共謀罪で裁くことに反対すべきではなかったか?

 「ロス疑惑」の三浦和義氏がロスへ移送された日に自殺したと報じられている。遺族や日米の弁護士は自殺そのものを疑っているようで、まさかとは思うがそのまさかの調査を要求している。

 27年目の逮捕であり、日本の裁判で無罪判決を得ている日本国民に対する逮捕でもあるのに政府や国会が抗議なり議論をしないことには違和感があった。当時の「ロス疑惑」報道によって三浦氏が限りなく黒に近い灰色だという印象を私も含めて多くの日本人が払拭できていない故なのかと考えてしまうのだが、違っているだろうか? 日本の世論がまだ三浦氏の処罰を求めているとするのは考え過ぎかもしれないが、あの事件の真相がまだ解明されていないとの気分はある。それは、「ロス疑惑」報道が余りに過熱したものだったからなのか、そうだとするとマスコミは罪なことをしたと言えるし、我々も因果なものだ。

 事件はアメリカで起こったことなのでアメリカが裁判権を行使するのが順当なところだったと思うが、三浦和義氏が日本に帰国していたこともあって日本が裁判権を行使することになった。アメリカの引き渡しを要求を日本が拒否したことの裏には警察や検察が捜査に先行する「ロス疑惑」報道で沸騰してしまった世論をおもんばかった事が大きかったと想像している。それが、まさか無罪となってしまうとは……。日本の捜査当局も、アメリカの捜査当局も、最後に日本人の多くもフラストレーションをためた結果に終わってしまった。それが普通であれば人権侵害を叫んで良いような問題であるのに、家族や弘中弁護士以外には声を上げなかった背景のように思う。

 日本の政府も法曹界も黙認しているとしか見えないのだが、日本の裁判で無罪判決が確定していることもアメリカで裁判をやることの妨げにならないというアメリカの理屈にはどうにも納得がいかない。「一事不再理の原則」はこの場合当てはまらないのだという。

 今回の捜査を担当するロス市警のリック・ジャクソン捜査官は先月25日の記者会見で、「一事不再理については検事局と協議してきた」と明言。「別の国で裁かれた罪でも、我々には逮捕を優先させる法的権限がある」と述べ、元社長側から「一事不再理に反する」と指摘されるのを見越したうえで検討を重ね、逮捕に踏み切ったことを示唆した。

 米国でも、合衆国憲法修正第5条で一事不再理が規定されているが、「外国の判決には、一事不再理を適用しない」との判例が定着している。カリフォルニア州では、メキシコへの凶悪犯の逃走が社会問題化したことをきっかけに、04年9月に州刑法が改正され、国外で判決が確定していても再び同じ罪に問えることが明文化された。ロス市警の判断の背景には、こうした法改正もあるとみられる。

 「アメリカの刑事司法」の著書がある弁護士の島伸一・駿河台大教授は「犯罪が行われた後に施行された法律はさかのぼって適用できないという『刑罰不遡及(そきゅう)』は刑法の原則だが、刑事手続きの規定には適用されない。一時不再理も手続きに関することであり、改正後の州刑法が適用されることになるのではないか」と話している。

200834日 読売新聞)

 「理屈は後からついてくる」というか「アメリカのやることが正義だ」というような非常に独善的で横柄なブッシュ政権時代に特有な法解釈のように思うのだけれど、ともかくこれが通ってしまっているのが現実だ。

 無理矢理、裁判まで持ってきたとして本当に裁けるのかとの疑問に対しては--アメリカには「共謀罪」があるからと言うのだ。日本の裁判では実行役として起訴された男性が無罪になったことが決め手になったが、米国の共謀罪は犯罪の実行を合意しただけで処罰できるため、実行役が判明しなくても立件の障害にならないのだという。そして共謀罪の立証には、合意された犯罪計画が実行に向けて進められていることを示す「外的行為」が必要で、三浦氏の逮捕状には20項目が挙げられているのだという。

 時期 内容

  1. 19817 三浦元社長が元女優に犯行を持ちかける。
  2.  三浦元社長が元女優にロサンゼルスまでの渡航代を渡す。
  3.  元女優が航空券を購入。
  4.  8 三浦元社長が一美さんに7500万円の生命保険をかける。
  5.  三浦元社長が元女優に犯行を指示。
  6.  元女優がロサンゼルスに渡航。
  7.   三浦元社長と一美さんがロサンゼルスに渡航。
  8.  三浦元社長が元女優と会い、凶器を渡す。
  9.   三浦元社長が、元女優に犯行を最終的に指示。
  10.  三浦元社長が、元女優に犯行を最終的に指示。
  11.  11 三浦元社長が一美さんに7500万円の生命保険 をかける。
  12.  三浦元社長が一美さんとロサンゼルスに渡航。
  13.   三浦元社長が一美さんをフリーモント通りに連れて行き、氏名不詳者に銃撃を合図。
  14.  氏名不詳者が一美さんを銃撃。
  15. 19822  三浦元社長が保険金を請求。
  16.  三浦元社長が保険金を請求。
  17.  3 三浦元社長が保険金を請求。
  18.  三浦元社長が約3000万円の生命保険金を受け取る。
  19.   三浦元社長が約5000万円の生命保険金を受け取る。
  20.  7月~8 三浦元社長が約8200万円の生命保険金を受け取る。

200834日 読売新聞)

 20項目の内ほとんどが日本の裁判でも認められている。しかし13項目目の狙撃犯人を特定できていないと言うことが三浦氏が狙撃を指示したことを証明できず、結局有罪とできなかった理由であろう。実行者の特定が必要なく、合図したと認められるだけで良いというなら簡単に有罪にできるでしょう。 しかしそれで良いのだろうか? 「怪しい奴はみんなぶち込んでしまえ」 と言う社会なら許されるかもしれないが、そんな社会に住んでいられるだろうか? 裁判官も国民もそれで有罪だと納得がいくのだろうか? 私が裁判官であったならばとても有罪を確信することはできないだろう。

 日本にはまだ共謀罪はない(法務省は狙っているようだ)が、多くの冤罪事件に観られるように、既に共謀罪があるかのような錯覚にとらわれる程日本の裁判制度は劣化している。これに共謀罪が加わるとトンでもないことになってしまいそうだ。

 確かに裁判にかけようとしたのはアメリカであるけれど、共謀罪で裁けると言うことに日本側として何の疑問も呈さなくてよいものだったろうか? 「一事不再理」の原則で争うのは当然であるけれど、「共謀罪で裁けば有罪」という法理自体の方に問題はないのか? 私にはこちらの方が遥かに問題が大きいと思える。いくら三浦和義という人間が嫌いであっても怪しくても、無理筋で処罰することは許されない事であったと思う。少なくとも彼は日本人であったのだから、日本政府が疑義を唱えることくらいは当然ではなかったろうか?

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2008年4月24日 (木)

差し戻し審に疑問

 山口県光市の母子殺害事件差し戻し控訴審の判決が22日にあり死刑が言い渡された。冤罪を争うものでもなく、犯した罪は紛うことなく大きいので法律的にはこの元少年の死刑を止める規定はない以上、死刑を選択することを非難することは出来ない。それでも何とも後味の悪い判例だと私は感じている。

 死刑を求める立場からは本村氏が「正しい判決に心から感謝している」と会見で話したように合理的な判断なのだろうが、どんな犯罪者であっても死刑は慎重にとの立場からは弁護活動は八方塞がりだとの感を否めない。読売新聞に載った判決要旨を読む限りの話では、死刑を避けようとした場合にどんな弁護の仕方があったのだろうかと考えると、全くやりようがないことに気づく。

 そもそもこの差し戻し審は「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の有無を検討する」のが役目だ。ということは一審、二審の弁護方針では全くだめだと言うことを意味している。一審、二審では弁護側はほとんど検察側の筋書きを争わず18歳に達したばかりの少年であることと生育環境の劣悪さを訴えて情状酌量を求める活動に徹した。検察側のストーリーを争わないことによって反省の情を示し、死刑を避け無期懲役を受け入れるというのが弁護側のストーリーだったと思われる。それが多分、検察・弁護・裁判所の通常の落としどころだったのだろう。それを突き崩したのは遺族である本村氏とマスコミ報道だった。被告が友人に出した手紙なるものが公開されて遺族を怒らせ、世論を沸騰させた事もあり、その奔流の中で最高裁の差し戻しの判断があったと考えている。

 元会社員は、強姦(ごうかん)および殺人の計画性を争ったほかは、ほぼ一貫して起訴事実を全面的に認め、最高裁の公判期日が指定される以前は、裁判所や弁護人に対し、起訴事実を争うような主張や供述をしていなかったことがうかがわれる(旧供述)。

 ところが、今回の公判で、犯行に至る経緯、殺害行為の態様、犯意などについて、供述を一変させた(新供述)。

 死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の有無を検討するに当たり、元会杜員が、犯行をどのように受け止め、犯行とどのように向き合い、自己の行為についてどのように考えているのかは、極めて重要である。そこで、当裁判所は、元会社員の新供述の信用性を判断するための証人尋問なども行った。(読売新聞)

 裁判というものは冷静に事実審理をするところだと私は考えているのだけれど、上記のように高裁判決は一審、二審での供述を被告が翻したことを批判して判決の論理を組み立て始める。供述を翻したからこそ冷静に事実審理にはいると言うことでならないと思うのだが、翻したことそのものを「死刑を免れたいための嘘、無反省の証」と判断されるのではその後の審理は全く意味のないものとなってしまう。事実殺意の存在を否定する鑑定意見は一顧だにされない。すべての弁護活動は意味のないものになってしまう。

 「高裁の見解はまっとうで、正しい判決と思う」と本村氏は言うのだが、私にはとてもまともな裁判だったとは思えない。私には死刑判決を下すのが悪いとまでは言えない。しかしあの冷静な本村氏が、求めた結果が得られたからと言って、「まっとうな」裁判だったと思うことが私には理解できない。

 私は被告の元少年を知らないので、どんな人間に見えるのかは分からない。しかし情状酌量を求めても今回は認められる可能性はないのに、遺族感情を傷つけることなく、改悛の情を示し、遺族を納得させるという芸当(不謹慎ですが)は出来るものだろうか?少なくとも私には想像がつかない。

 逃げ道を断たれて、すべての道は死刑へと続いていることをあらためて被告は思い知ったことは間違いがないと思う。一審、二審そして差し戻し審と続いた裁判を振り返るときにどんなことを被告は考えているのだろうか?「胸を張って死刑を受け入れて。罪を認め、残りの人生を送ってほしい」との本村氏の言葉を果たして受け入れられるのかどうか?それは、差し戻し審で嘘と決めつけられた供述の真偽如何によるのだと思うのですが、結局すべては被告の胸の中にある事になってしまう。

 供述のすべてが信じがたいものと断じられたが、「死刑になりたくて」人を殺すという19歳の自衛官の言うことも普通には理解しがたい。早く執行しろと言う詫間なんて言う例もある。裁判官には信じがたいことであっても、そう簡単に否定してしまって良いものなのだろうか?信じがたい事件は枚挙に暇がないほどではないのか?

 裁判官というものがこんなに感情的で良いのだろうか?裁判員制度では我々一般人はこんなにも感情的に激しやすい裁判官と一緒に仕事をすることになる。彼らの激情を抑えて冷静な審理を保証することが我々一般人に果たして出来るのだろうか?非常に不安だ!
coldsweats01

 本村氏の会見では応報感という言葉も使われていた。現状は国家権力が死刑執行するのだけれど、将来的には究極の応報と言うことで死刑執行のボタンを押すところまで要求する人が現れるのだろうか?

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2008年4月17日 (木)

画期的判決ではあるけれど…

 画期的な判決が名古屋高裁で出されました。地裁ではなく高裁でなされたという事は驚きです。

 自衛隊のイラク派遣に反対する市民グループのメンバーらが国を相手取り、派遣が憲法違反であることの確認などを求めた訴訟の控訴審判決が17日、名古屋高裁であった。

 青山邦夫裁判長(高田健一裁判長代読)は、1審・名古屋地裁判決と同様、違憲確認の訴えそのものは不適法などとして原告側の控訴を棄却したが、航空自衛隊の輸送活動について「バグダッドは戦闘地域であり、活動地域を非戦闘地域に限定したイラク復興支援特別措置法と、憲法9条に違反する活動を含んでいる」と述べ、違憲判断を示した。

 差し止め請求については「イラク派遣は、防衛大臣に与えられた行政上の権限による公権力の行使にあたり、民事訴訟としては不適法」と退けた。防衛省では「判決文の細部を確認中で、現時点ではコメントできない」としている。
(2008年4月17日14時24分 読売新聞)


 イラクにおける空自の活動は食料・医薬品どころではなく米軍兵士などを運んでいるので「自衛隊が活動しているところが非戦闘地域だ」との倒錯した論理を恥ずかしげもなく使える人をのぞくと、誰が考えても違憲活動であることに疑いはないので、至極まっとうな判決だと思う。

 しかし、若干の複雑な気持ちが残る。一つは、「イラク派遣」の差し止めを伴わない政府側勝訴の判決であるが違憲活動もあるという「どっちつかず性」。確かに違憲判決を勝ち取ったとして原告側が喜ぶのはもっともであるが、一方政府側にとってもなじられただけで派遣を継続することの実質的障害とは成り得ないこと。形式を捨てて実質をとった判決だとは評価できるけれど、依然としてこの日本では憲法が行政権を超えられないという現実を見せつけられている気にさせられる。決して「イラク派遣法」等は憲法に優先するものではないはずなのに…。

 もう一つは、青山邦夫裁判長(高田健一裁判長代読)の一節。どうして代読なのかと調べると青山邦夫裁判長は先月末に依願退職している。任官時期からすると年齢的にリタイアの時期でもなさそうなのですが依願退職している。「違憲判決」を出すために依願退職をしたのか?、それともたまたま依願退職の予定だっただけで「違憲判決」とは関係がないのか? 何があったかは分かりませんが「違憲判決」を出すときに裁判官が巨大な困難と息苦しさを感じているだろう事を私は想像してしまう。それは左遷されるよりも、首になるよりも「辞めた方が楽だ」と思わせるほどのものなのだろうか?

 青山邦夫裁判官はたぶん正直で勇気のある人だったのだろうと想像する。「違憲判決」を出したそんな裁判官が最高裁判事の椅子に座っている時代がいつの日にかこの日本に訪れるだろうか?

判決要旨=「iraku-nagoyayoushi_20080417.pdf」をダウンロード

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2008年3月15日 (土)

横浜事件免訴にはとても納得がいかない。

 昨日、横浜事件の再審上告審が免訴で結審した。

 戦時下最大の言論弾圧とされる横浜事件(1942-45年)で、治安維持法違反の有罪が確定した元中央公論編集者の木村亨さんら元被告5人(いずれも故人)の再審上告審判決で、最高裁第2小法廷は14日、元被告側の上告を棄却した。

 刑の廃止や大赦を理由に審理を打ち切る「免訴」とした再審1、2審判決が確定することになり、裁判手続きは事実上終結した。有罪か無罪かの言及はなかった。 (北海道新聞)


 元々の有罪判決は治安維持法が廃止される1945年10月までの僅かの期間になされている。何故そんな時代の転換点に、どさくさに紛れるかのように有罪判決を出す必要があったのか? なかなか理解できない。 判事や検事が旧法の下でそれほど信念の人かというと戦犯追及を恐れて判決文などを焼却処分しているというのだから小賢しい。要は、自分達の悪行が表に出る前に監獄に突っ込んでしまおうとの一心だったとしか思えない。

 今井功裁判長は最高裁判例に従って「刑の廃止や大赦があれば免訴としなければならず、免訴判決に対する上訴もできない。通常の裁判でも再審裁判でも手続きは同じ」と判断した。

 有罪確定から60年以上、最初の再審請求から約22年を経て「でっち上げの冤罪。免訴ではなく無罪判決で名誉回復を」とする元被告らの主張は認められなかった。

 4人の裁判官全員一致の意見。今井裁判長と古田佑紀裁判官は補足意見で「免訴判決がなければ無罪と認められるような場合は、刑事補償が受けられる」とし、元被告側への配慮を示した。(北海道新聞)


 自分達の悪行を隠すためだけの判決を「そもそもの法が廃止されて、大赦も受けているのだから免訴だ」と言うのではとても納得がいかない。ちなみに免訴とは「根拠法の廃止により事件は初めからなかったものとし、有罪・無罪の判断をしない」(Wikipedia)と言うことですが、事件はなかったというなら拷問される前まで時間を巻き戻してから言ってくれ!
1076_1 補足意見の中には刑事補償が受けられるというような文も見受けられますが、左の写真に観られるとおりで原告が求めていたのは司法の「正義」その物だと思うとやはり白々しさを免れない思想だと感じる。

 人をぶん殴っておいて、「あれはないことにしよう、水に流そう、悪くないけど金なら相談に乗る」と言われたようでとても感じが悪い。法律も変わったし人も変わったかも知れないが、被害を受けた事実は何も変わっていない。それに対する償いも、癒しも何もない。これで何を納得すれというのだろうか?

 幾つかの社説でこの判決を取り上げていたがおおよそは「やむを得ない判断」と言うことのようですが、とても同意できない。

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2008年3月10日 (月)

声明・公開質問状への賛同メールのお願い。

友人から「広島事件声明・公開質問状に対する賛同」の要請メールが届きました。

 米海兵隊員による女性への暴行事件がこんなに頻発する国はヨーロッパにはないそうです。植民地ではあるまいに自国民の人権を守ろうとしない国家も駄目ですが、暴行された同胞を支えない国民も駄目です。つい最近も女子中学生が米兵に対する告訴を取り下げざるを得ませんでした。県民集会には仲井真知事を初めとして与党側が二の足を踏んでいるようです。米軍再編というのは実はアメリカによる日本国再編の事だと思い至りました。

 昨日の夜に、昨年亡くなった小田実氏にテレビを通じてガツンと殴られました。私も署名をする決心が付きました。以下のリンク先より内容を確認の上、賛同していただける方は署名をお願いします。

「軍事基地と女性」ネットワークからの「広島事件声明・公開質問状に対する賛同」の要請

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2008年1月10日 (木)

ガードレールの強度はどうした?

Mado5 今朝は珍しく冷え込み、ご覧のように我が家の窓も凍り付きました。結露することも珍しい今日この頃ですが、さすがに零下10℃を越えると昔懐かしい姿が見られます。

 さて、昨日は何処のラジオもテレビも福岡での飲酒運転事故の判決の話しで持ちきりでした。確かに7年半刑務所暮らしをすると言うことも大変なことには違いないのですが、三人の命のことを考えると如何にも軽いという気はします。

 検察当局は危険運転致死傷罪を適用し、道交法違反(ひき逃げ)との併合罪で最高刑の懲役25年を求刑した。これに対し弁護側は、正常に運転できる酒気帯び運転で、危険運転罪には当たらないと争った。福岡地裁は弁護側の主張を取り入れる形で、被告に懲役7年6月を言い渡した。(産経新聞)

 危険運転致死傷罪適用のハードルが高いようで、呼気中のアルコール濃度と蛇行運転などの酩酊状態が証明できなければ危険運転致死傷罪は適用できないとされた。 このハードルが高すぎると言うことが議論を呼んでいるのだけれど、拡大解釈の余地を大きくすることも恐ろしくて賛成しかねるところです。一心不乱に危険運転致死罪を適用しようと考えるばかりの世論やマスコミの論調には馴染めない。

 事故の概要は記憶に新しいところだと思うのですが、新聞記者にしてからが既にやや感情的に述べ始めている。

 事故はあまりにも悲惨で許し難いものだった。被告の元福岡市職員は一昨年8月、酒を飲んで運転中に追突事故を起こし、幼児3人と両親が乗った車は、そのまま橋の欄干を突き破って海に転落、幼い3兄妹が水死した。(産経新聞)
 追突事故と三人の死が直結しているように考えるのが常なのですが、私は「欄干を突き破って…」というところにいつも引っかかりを覚えるのです。以前、「福岡の追突転落事故を繰り返さないために!」と「飲酒運転は勿論悪いけれど……」等の文章を書いたときには、マスコミもいくらかは橋のガードレールの強度の問題を取り上げていたように思うのですが、いつからか全く取り上げられることが無く「飲酒運転撲滅キャンペーン」一色になってしまった。

 今回の裁判ではガードレールの強度が車の接触や衝突に対応した物でなかったことが争点になっていないようだけれど、何故この点を弁護側は争わなかったのだろう? しらふでの脇見運転による事故であっても同じことが十分に起こりえるのだから、道路や橋の構造の方を争点とする弁護活動になっても不思議はないと思うのだが…。

 光市の裁判でも見られる傾向で憂慮してもいるのですが、被告側が「自己弁護」を試みると「反省の態度が見られない!」とのバッシングに曝されることを恐れたのだろうか? それとも、危険運転致死傷罪の適用がなされないという(暗黙の)了解が出来ていたからだろうか?

 控訴審で危険運転致死傷罪が適用されそうになれば当然浮上してきそうな争点であるとは思うが、「反省の態度が見られない」ばかりか「お上にまで楯を突く」として恐ろしくて持ち出せない争点なのだろうか? 一時は確かにガードレールの強度を車対応の強度のものに変えるとの措置が検討されたように思うのだが、国土交通省のサイトを調べても見あたらない。 飲酒運転撲滅は結構なのだけれど、社会インフラの方も事故から学んで改善されているのかどうか…。

 この被告を余り弁護したいわけではないのですが、どうも争点が出そろっていないというか、片手落ちの議論で裁判が進行していくのは社会のためにならんのではとの疑問が拭えない。

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2007年12月14日 (金)

裁判員制度が必要なのは民事の方!

 「とんでも判決」が多い日本の裁判ですが、昨日示された大阪高裁の和解案も原告側を落胆させるだけの案であったようです。

 関係者によると、和解骨子案は、国と製薬会社の法的責任には触れずに、「解決責任がある」と指摘。東京地裁判決を基準に、補償の対象となる投与期間を(1)フィブリノゲンは1985年8月-88年6月(2)第9因子製剤は84年1月以降と限定。その上で、肝硬変と肝がんは4000万円、慢性肝炎は2000万円、感染したがまだ発症していない場合は1200万円の3ランクに分けて補償する内容という。

 今後新たに提訴する患者は、投与時期がこの範囲内なら補償されるが、範囲外は救済されないことになる。
(中日新聞)


 大きくは国の責任を認めると言っているのですが、責任範囲を厳しく限定しようとするその姿勢を見てしまうと、原告でなくとも裁判所は国の味方かと思わざるを得ないものがある。 判決ならばどんな判断も示せるが和解という以上双方が受け入れ可能なところを探し出さなければならないので仕方がないと言えば仕方がないのだが、どっちつかずの八方美人的なものになるのは如何にも残念だ。

 しかしそれにしても、これまでの厚労省の示してきた製薬会社への天下りをベースにした、薬害隠しの有様はあまりにも酷すぎる。その意味では国の責任は厳しく断定されて当然だし、補償範囲も薬剤投与の証明と時期に適合するものと限定することは一見公平性を装うものだが、実際は厚労省のやってきた薬害隠しの所行を認め、将来にわたってこのような所行を奨励することにもなりかねない判断だ。薬害が疑われた段階で素早く動いていれば投与証拠の保全も可能だったろうし、感染の拡大も防げたのだから厚労省がやったことは故意と断定すべきところだ。

 国の責任を認める以上は、投与の可能性が疑われる場合は認める以外になく、救済されないのは投与の事実が証拠を持って否定された場合のみと言うことになる以外にない。税金も大量に投入されることになるが納税者はこれを認めるだろう。納税者としては救済は当然だし、厚労省官僚の故意のサボタージュの責任をこそ問いたいところだ。原資がなければ「米軍への思いやり予算」を削って「日本国民への思いやり予算」を増やすよ。

 こういう裁判にこそ市民を入れろと言いたい。 裁判員制度には基本的に賛成の立場ですが、順番が逆のような気がする。 一般の市民にとっては重大刑事裁判の審理に加わることは如何にも荷が重い。法律の専門家の検事や裁判官が「推定無罪の原則」をどれ程理解しているか疑われているこの日本で、法律の専門教育を受けたことのない市民が刑事裁判に関わることはいささか無謀の誹りを免れないのではないか。 民事訴訟ならば「市民の常識」に活躍のチャンスは大いにあるだろう。 市民参加には最も相応しい裁判ではないか?

 民事訴訟にこそ裁判員制度を! もっともこうした裁判にこそ市民の目を向けさせたくないのが国家権力というものなのかも知れませんが…。

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2007年12月12日 (水)

国民の税金で遊ぶんじゃない!

 政党ビラ配りに逆転有罪判決が東京高裁で出された。ビラを投函しただけで逮捕なんて社会を一体誰が望んでいるというのか?

 三年前の突然の拘置は正月をはさんで二十三日間にも及んだ。判決は未決拘置日数(二十一日間)を一日五千円に換算して刑に参入することを認めており、すでに罰金五万円は払い終えた計算になる。「有罪ありきの政治的な判決。この五万円が日本社会にどれだけの影響を与えるかと考えると、あらためて怒りがこみ上げる」と荒川さん。(東京新聞)
 この裁判官は如何にも姑息で小物と思える。政治的意図を汲んだ有罪判決と被告側にこれ以上の実害が及ばない事を持って天秤が釣り合うと計算していると思われる。自分だって「こんな事で有罪にしちゃうの?」ぐらいのことは考えるのだが、無罪と言ってしまったときの我が身が心許ないのだろう。こんな判決を出してしまって恥ずかしくないものだろうか?反動的なんて言うよりも哀れさの方が先に立つのですが…。
 マンションの住民が見ず知らずの人間に敷地内に入ってほしくないと思うのは、住民の防犯意識が高まる中での自然な感情だ。しかし、東京都立川市の自衛隊官舎への反戦ビラ配布事件以降、相次いだ摘発は、住民の防犯意識を利用して、特定の市民団体や政党の主張を恣意(しい)的に弾圧する手段に使っているように見える。高裁判決はこうした流れを支持したことになる。

 ビラ配布は、市民がメッセージを伝達する有力な手段だ。受け手にとっては、情報を得る機会でもある。捜査当局による逮捕、拘置など公権力の行使は住民に害を及ぼす危険性がある場合など、抑制的であるべきだ。

 「表現の自由」と「プライバシー権」がぶつかり合った事件だったのに、一、二審はほとんど憲法判断をしていない。「憲法の番人」である最高裁の判断が注目される。 (東京新聞 出田阿生)

 記者はもっともなことを書いているし、他のブログでも正当なことを詳しく述べてくれていることだろうと想像する。それはそれで大切なことなのだけれど、「表現の自由」と「プライバシー権」との衝突というようなたいそうな事件だったのだろうか?警察も検察も裁判所も本気でそんなことを考えていたのだろうか?

 まあ起訴したくらいだから本気だと考えるのが筋だろうけれど、「洒落のつもりが本気になっちゃった」なんてところはないのだろうか? 以前話題になった「それでもボクはやってない」という映画を見せると「日本人は深刻な顔をしてみているのだけれど欧米人は笑ってみている」と言うようなことを監督が言っていたのを思い浮かべる。「まさか…??…冗談でしょう?!」と言ったところらしい。この事件だってドキュメンタリーとして撮ってカンヌに持って行ったら大受け間違いなしで、グランプリかも知れない?

 本当にプライバシー権なんてものが問題になっているのか? 本気でそう考えているのか? 法律ならば立法意志が問われることがあるように、住民が何を思い浮かべて「チラシ・パンフレット等広告の投函(とうかん)を禁じる」なんて張り出したのかを訊いてみたのか? 普通なら「サラ金の広告や、猥褻サイトへの誘導」チラシを何とかして欲しいと思ったというに決まっている。 政党ビラや宗教団体のビラを想像していたわけではないだろう。
そもそもこんな事件を処罰して欲しいと思っていたわけがないと思う。

 ちょっと考えてみたら大騒ぎすることでもないのに、警察も検察も共産党も裁判所も引っ込みがつかなくなってしまった。そうした思いはないのでしょうか?こんな、多分民主国家では問題にもなり得ない事件で最高裁まで争うつもりなんですか? 今度有罪ならエラク息苦しい社会になりますが、そんなのを本当に望んでいるのですか? いくら警察官でもそんな社会は嫌でしょう。

 私が最高裁の判事なら「おまえら国民の税金で遊ぶんじゃない!」と言って即刻無罪放免です。

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2007年11月29日 (木)

また出た無罪判決!

 死刑を求刑されていた裁判で無罪判決が出された。

 広島市西区で2001年1月、保険金目的で母親を殺害して放火し、2人の娘を焼死させたとして殺人、現住建造物等放火などの罪に問われた元会社員中村国治被告(37)の判決公判が28日、広島地裁であり、細田啓介裁判長は「犯行状況や動機についての自白は不自然で不合理。被告を犯人と断定するには疑いが残る」とし、中村被告に無罪(求刑・死刑)を言い渡した。最高裁によると、死刑が求刑され、1審(再審除く)で無罪判決が出されたのは、1978年以降で3件目という。地検は控訴する方針。

 中村被告は児童扶養手当詐欺事件で逮捕された後、放火殺人について自供したが、公判で否認し、無罪を主張。明確な物的証拠がなく、取り調べ段階の自白調書の任意性や信用性などが最大の争点だった。

 細田裁判長は「被告が犯行を行ったとする客観的証拠はなく、自白調書は検察官の主観に頼った内容になっている」などと捜査のあり方を批判した。

 起訴状によると、中村被告は01年1月17日午前3時過ぎ、母親の中村小夜子さん(当時53歳)方1階で、就寝中の小夜子さんを絞殺。灯油をまいて放火、2階で寝ていた長女彩華ちゃん(同8歳)と二女ありすちゃん(同6歳)を焼死させ、生命保険金など約7300万円を詐取したとされた。
(2007年11月28日 読売新聞)


 判決は順当なものだと思う。自白以外に証拠がなく、それが否認されているのであれば検察の有罪であるとの証明が不完全であり有罪を言い渡すことは不可能だ。 特別なことではないことがニュースになるというのが日本の裁判がお粗末だったことの証明であると思うが、今年になって自白のみによる冤罪事件の無罪判決が続いたことによって、さしもの日本の裁判官も異常さを認識した人が増えてきたと好意的に考えて良いのだろうか?

 いつものことだけれど、では真犯人は何処に?という疑問が湧くけれど、そもそも事件から5年もたって別件で逮捕して自供を引き出そうとする警察の行為その物に無理がある。何の新証拠も提示できないまま長期間の勾留で自白に追い込むというのはもう許されないと認識を改めてもらいたいものだ。

 警察の取り調べを可視化するという議論がなされているが、物証によって自供を引き出すと言う原則に立ち戻って、科学捜査の能力に磨きを掛けていただきたい。たとえ録画データであっても作為は存在しうるし疑うことも出来るのだから。

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2007年9月26日 (水)

鳩山邦夫の発言に死刑制度を考えた

 辞任時のサイゴッペなのか、本人は問題提起のつもりかも知れないが二世三世議員の「へたれ」振りが透けて見えるばかりで、大いに醜態をさらしたと言えるのではないか。

 鳩山法相は25日、内閣総辞職後の記者会見で、死刑執行の現状について「法相によっては、自らの気持ちや信条、宗教的な理由で執行をしないという人も存在する。法改正が必要かもしれないが、法相が絡まなくても自動的に執行が進むような方法があればと思うことがある」と述べ、法相が死刑執行命令書にサインする現行制度の見直しを提案した。

 鳩山法相はさらに、「死刑判決の確定から6か月以内に執行しなければならない」という刑事訴訟法の規定について、「法律通り守られるべきだ」との見解を示し、執行の順番の決め方についても、「ベルトコンベヤーと言ってはいけないが、(死刑確定の)順番通りにするか、乱数表にするか、そうした客観性がある何か(が必要)」と述べた。

 そのうえで、誰を執行するのかを法相が最終的に決めるやり方では、「(法相が)精神的苦痛を感じないでもない」と言及。冤罪(えんざい)などを防ぐための慎重な執行が求められるという指摘については、「我が国は非常に近代的な司法制度を備え、三審制をとり、絶対的な信頼を置いているわけだから、(法相が執行対象者を)選ぶという行為はあってはならない」と語った。
(2007年9月25日13時11分 読売新聞)


 都知事選に出て石原に負けその後民主党から自民党に鞍替えしたあたりからうさん臭い男だとは思っていたがいよいよ馬脚を現したかとの思いがした。

 法務大臣として死刑執行の書類を決裁しなければならない事に悩んでいたのだとは思うが、それを死刑執行を自動化しようとか乱数表で決めようとかで責任逃れをしようと考えることは自分の「へたれ振り」を曝す物でしかないことに本人は気付いているだろうか? 再任はサプライズだと喜んでいるように見えたが政治家としての発言は重い。法相のハンコが必要な制度はそう簡単には変わらない以上、今後死刑執行の書類には自動押印機と化して死刑を連発する事を迫られるよ。 そう言う主張なんだと言うことを承知で発言したのかどうか? 多分、その問題を抱えるのは自分以外の誰かだと思っていた気安さで喋ってしまったのだろう。 死刑制度に自分で向き合わないで他人や死刑囚に解決してもらおうとするから「へたれ」だというのです。

 「司法制度に絶対の信を置いている」との発言には、「何をか言わんや」だ。 冤罪事件の多さを知らないのか?日本よりはまともそうな捜査をしているアメリカであっても、「1976年以降死刑判決確定後冤罪として釈放されたのは112人に及ぶ。これは死刑囚全体の2%に相当する。現在アメリカでは死刑判決から死刑執行までの平均期間は約20年間となっている。この間弁護士等による死刑囚への援護が行われ再審は珍しいことではないことが要因となっている。」(死刑廃止と死刑存置の考察)と言われているし、最近ではNHKのクローズアップ現代が「無実の死刑囚124人の衝撃」として冤罪問題を取り上げた。 日本の司法制度は「絶対の信」などはおける情況にはない事は少し勉強すれば分かることだ。 政治家を続けるなら少しは勉強をしてもらいたい。

 私は死刑廃止論までには至っていませんが、そちらに傾いている。光市の裁判が「弁護活動まで許せない」との世論誘導にマスコミとりわけテレビが血道を上げている事を危険だと思っている。マスコミやネットが冤罪事件を暴いてきたという功績も認めるけれど、裁判の前に有罪の判決を世論として形成してしまおうという動きは批判したい。また、こうしたマスコミや世論の影響か被害者家族の行動にも「これはどうかな?」との動きが見られる。

 最近では磯谷利恵さんのお母さんが極刑陳情の署名活動をネットで展開している。 事件自体は理不尽この上ない事件で、家族として「極刑を望む」というのは理解できるのだが、『「敵を討ちたい!無念を晴らしたい!」と思っても、司法の壁に阻まれ苦悩しています。』と書かれると「本気でそう思っているの…?」と思ってしまう。 

 アメリカでは死刑の様子を被害者家族、死刑囚の家族、警察官、検察官、弁護士が立ち会うのが普通だという。自分が被害者の気持ちになることは現実には難しいが、被害者家族だとして死刑執行の様子を直視していられるかと問うても自分には自信がない。観ることすら耐えられないのではないかと思う。「司法の壁に阻まれ」仇討ちが出来ないと主張されているが、「どうぞ死刑執行のスイッチを押してください」と勧められたとしても、とてもスイッチを押す勇気を私はもてそうにない。憎き死刑囚を「貴方の好きなように…」と差し出されたとして自分の手で殺せるだろうかと考えても、到底出来そうにない。

 幾ら被害者家族だとしても、平和に暮らしてきた一般市民が人を殺せるものだろうか? ハンコをつくだけの法務大臣でも相当悩むのに、まして国家の命令で死刑執行をする立場の人はどんな気持ちだろうか? 理不尽な犯罪を前に「死刑を!」と叫ぶことと実際に「人を殺す」事との間には大きな大きな隔たりがある。私にはとても越えられそうにないし、多くの被害者家族にも越えられるとは信じられないのだが…。

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2007年9月12日 (水)

この判決を機に隠蔽するのは止めましょう!

オオット! 思わず拍手の判決がありました。

 愛媛県警に不正経理があったとする内部告発をした直後に報復人事をされて精神的な苦痛を受けたとして、同県警の仙波敏郎巡査部長(58)が県を相手取り、100万円の慰謝料を求めた損害賠償請求訴訟の判決が11日、松山地裁であった。高橋正裁判長は「配置転換は報復で行われたと推認され違法。県警本部長の関与も否定できない」などとして県に請求全額の支払いを命じた。
asahi

 未だ地裁だから…との断り付で言わなければならないことは残念ですが、随分思い切った判断を高橋正裁判長は言い渡してくれました。配置転換を報復人事と認定した上に、本部長の関与までも認めたことは画期的だと思う。

 どんな組織でも内部でやっていることを外部から窺い知ることは難しいものだ。だからこそ警察や検察は捜査権が与えられているのだけれど、その警察の悪事は誰が監視するのかということは大きな問題だ。やはり北海道警の裏金作り問題でも分かるように実名での内部告発がなければなかなか組織の壁を突き崩すことは出来ない。個人としては社会正義のために大きなリスクを冒して告発しても、裁判で有罪を勝ちとれなければ全くの徒労どころではない。だからこの裁判の判決は個人にとっては勿論だけれど、社会にとってこそ有意義な判決だと思う。

 どんな捜査機関も自分の悪事がばれることを隠蔽しようとして動くことがあってはならないと思うが、警察だけではなく、大阪高検の三井環公安部長が内部告発しようとしたところを直前になって逮捕されたという事件が思い出される。これも裏金作りの告発である。確かに犯罪だし、金額も大きなものになるけれど、どちらかというとチマチマしたけちくさい事件だ。大泥棒というよりはこそ泥の類の事件なのだ。しかしそれを隠蔽しようとして「巨悪を為す」の感がある。この判決を機に、小さな嘘を隠そうとして大事になるようなばかばかしさを警察も検察も認識してもらいたいものだ。

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2007年8月22日 (水)

原田正治さんのこと

Harada
 朝刊(読売)を読んでいて、この清々しい笑顔に引きつけられました。
 原田正治さん、彼は弟を保険金目当てに殺された人で、加害者と被害者とが対話することの意義を考える会「Ocean」を設立している。

 「加害者と向き合って真実を知れば憎しみ以外の感情が芽生えることもある」との言葉を聞くと、つい光市の裁判のことを考えてしまう。本村洋さんについては正直余りよく思っていない。理路整然と死刑を求められると私には背筋に冷たいものが走る。しかし正確には覚えていないのですが、彼が「被告は死刑の可能性を感じて初めて自分の犯した罪と向き合う」というような言い方をしたときに、共感とともに今まで思ってきた本村像とは違うものを感じた。何が何でも「死刑を!」と言うのとは違うのか?…と。

 今までのこの裁判では加害者が「悔いていない」から死刑を求める、では「悔いた」加害者に死刑を求められるのだろうかとの疑問が残る。本村さんは「死刑」を求めているのではなくて「悔いること」を求めているのだろうかと思ったりする。そう考えると加害者だって「悔いて」はじめて死刑が受け入れられるような気もする。

 人間というのは不思議だなとつくづく思います。応報感情だけしかないのならば加害者を死刑にして終わるのだけれど、被害者の感情はそれのみにとどまるものではないという。犯罪被害者の感情はどうしたら癒されるのか?被害者は加害者に何を求めるのだろうか?大阪池田小事件の詫間のように一片の反省も口にすることすらなく刑死してしまうものもいる。死刑にしたために一生救われない被害者もいると言うことをこの事件は教えてくれた。

「加害者と向き合って真実を知れば憎しみ以外の感情が芽生えることもある」

「会うことで加害者はより償いの思いを深くし、被害者は傷を癒せることもある」

「すべてを失った。でもへこたれない。被害者のやりきれない気持ちを和らげるためにも、一人でも多くの賛同者を集めたい。

この感情もまた人間の不可思議で愛おしいところに違いない。

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2007年7月29日 (日)

「冤罪を憎むと言うより、誤判は犯罪だと考えていた」裁判官

Watanabeyasuo2
 今年の四月のことでしたが読売新聞の訃報欄に載った左の記事に目がとまりました。渡部保夫という名前とこの顔に見覚えがありました。70年代に友人が学内でのちょっとした内ゲバ事件に絡んで逮捕され起訴されたときの裁判長でした。この時には長年の友人であった私が救対の担当となり家族と拘置所の間を幾度となく通いました。家族には私が誘ったように思われ、しばらくの間随分と恨まれたものでしたがその誤解も後に解けましたが、そんな思いでのある人の出現でした。判決は執行猶予付で今後について穏やかに諭され、随分穏やかな裁判官だなという印象でしたが、同じこの人があの梅田事件の再審開始決定をした事を知り、その後の発言を聞くにつけ「穏やかであるが信念の人だった」との思いを強くした。 この記事に書かれているように、「冤罪を憎むと言うより、誤判は犯罪だと考えていた」というところに感動すら覚えます。

 アメリカでは冤罪の元受刑者らに120億円賠償認める判決が連邦地裁で出されたことが報じられています。

 【ニューヨーク=中前博之】米連邦捜査局(FBI)が証拠を隠したために殺人罪で長期の服役を強いられたとして、元受刑者らが米政府に冤罪(えんざい)に対する損害賠償を求めていた裁判で、マサチューセッツ州ボストンの連邦地裁は26日、総額1億100万ドル(約120億円)の賠償を認める判決を言い渡した。

 訴えていたのは、1965年に起きたギャング抗争絡みの殺人事件で死刑判決を受け、33年服役した男性2人と、服役中に死亡した男性2人の遺族ら。

 判決は、実際に殺人にかかわったギャング組織の捜査協力者を守るため、FBIが意図的に証拠を操作したと認定。「ミスという次元を超えて、無実の人間を陥れる意図的な不正行為だ」と厳しく批判した。
(日経新聞)


 120億円相当というべらぼうな金額だとも思うのだけれど、少なくともアメリカでは正義にもとる行為は厳しく罰せられるという印象を受ける。また、そうしなければ正義にもとる行為は防止できないとの思想もあるのだと思う。翻って、日本の裁判を見ると最近の富山連続婦女暴行犯として服役後真犯人が判明した、明らかな冤罪事件においても裁判所の対応は警察や検察に甘いというか、裁判所もグルという印象をもたらすものになっている。
 富山県警に女性暴行と同未遂事件の容疑者として逮捕され、約2年1カ月服役した後に無実と判明した男性(40)の有罪を取り消す再審の初公判が20日、富山地裁高岡支部(藤田敏裁判長)で開かれ、男性は罪状認否で「全く身に覚えがなく、やってません」と述べ、起訴事実を否認した。検察側は冒頭陳述で「男性が無罪であることを立証します」とだけ述べた。

 弁護側は誤認逮捕に至ったずさんな捜査の実態を追及するため、当時の取調官の証人尋問を申請したが、藤田裁判長は「必要性がない」と却下した。閉廷後、男性は弁護士に「(裁判に)絶望した」と話したという。

 次回の7月18日に男性への被告人質問を実施。その後、検察側が無罪の論告をして結審する見通し。
〔共同〕


 証拠の捏造に等しい行為をなした警察や検察の責任を追及するという姿勢が何ら感じられない。正義を期待される裁判所に冤罪事件を防ぐためには何をするべきなのかという観点がまるで感じられない事には無実の罪を着せられた人でなくとも絶望感すら覚えるだろう。まずは渡部保夫氏の信念のように「冤罪と言うよりは誤判だ」という思想を裁判所自体に持ってもらいたいものだ。その観点がなければ次の警察や検察の違法な捜査方法を防ぐ手立てを講じようという動機すら出てくるわけがない。

 他方社会の側ではテレビ報道が裁判を扱うことが多いのだけれど、検察側の主張を崩すことも多く一概に悪いとは思わないが、光市の裁判のようにともすれば情緒的な面に力が入りすぎて弁護団へのバッシングまでが激しく巻き起こされ、証拠に基ずく裁判の遂行を阻害しかねない傾向には危惧を感じる。この事件などは鑑定書を慎重に評価すべきだと思っている。テレビ局も報道ではなく視聴率稼ぎの娯楽として扱う事には根本的に反省が必要ではないか。

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2007年5月25日 (金)

「推定無罪」の原則は何処へ行ってしまったのか?

 昨日は山口県光市の母子殺人事件の差し戻し審のことが話題になった。「死刑以外にあり得ない」と言うような話し方をされると「ちょっと待ってよ、それは貴方の判断?」とチャチャを入れたくなる。

 被害者の本村氏もワイドショーも盛んに「弁護する事自体が許し難い!」と主張しているように感じるのだが、正常なことだろうか? 近頃は容疑者の発言がリークされて報道されることが多くなったし、弁護側も面会して直ぐに記者会見で話した内容を漏らしている。そのこと自体に私は違和感を感じている。事実審理は裁判で行うものであって世論調査や選挙で行うものではないでしょう。 捜査側も弁護側も一定の効果を狙っての事なのだろうが、どちらも事件や背景を系統的に説明したものではないし、そうしたことが出来るような時間的な余裕もないうちから情報が流されて、世論、ひいては裁判官も一定の予断を形成することになる。裁判を世論が誘導するようなことが良いのかどうか大いに考えてもらいたいところだ。

 光市の事件は裁判に世論が圧力をかけ続けている最たる事例だと思う。弁護側が21人という事で話題になっているが自分が弁護士だったら二人や三人では「弁護する事自体が許し難い!」というバッシングの嵐に耐えていけないと思う。あれだけ大勢の弁護団になった本当の理由は分からないけれど自分はそう考えて納得している。冷静に聞くならば安田弁護士達は事実審理をしっかりやってくれと言う以上のことは言っていないと思う。「死刑廃止論者の世迷い言」と取るとしたら既に予断が出来上がっている。誰にすり込まれた感情かと言うことを少し考えて欲しい。

 今日のワイドショーでは早速弁護内容がやり玉に挙げられているが、弁護団が強姦目的の殺人を否認して傷害致死罪の適用を求める事は何ら責められるべき事ではない。ワイドショー等が検察側の立証を検討するのではなく弁護側の立証を検証しようとすること自体が異常なことだと私は思う。肝心の裁判がこうでないことを願っているけれど…。 本来刑事裁判では検察側が100%確実に罪を立証しなければならないものだが、今回の差し戻し審では立証責任が弁護側に預けられてしまっている。これ自体が既に異常なことではないのか? つまり刑事裁判における「推定無罪」の原則が全く忘れ去られている。今回の差し戻し審は「推定有罪」という異常な事態となっている事に注意したい。

 盛んに取りざたされている裁判員制度などが始まったとして「推定無罪」の原則を裁判員に周知徹底させることが出来るのだろうか?非常に不安になるところだ。

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